通勤時間帯を少しずれても、この路線の電車は混んでいる。 体の自由がきかないほどではなかったが、ときには知らない人間と体を密着させなくてはならないこともあった。
「……!」
高校2年になる山下ユイは、電車のドアのすぐ側に立ち、窓の外の流れる景色を見ていたが、ふと体を硬直させた。 自分のすぐ後ろに、サラリーマン風の中年男性が立っていることに、気がついたからである。
(どうしよう…)
男性は、ユイより頭一つほど身長が高いようだったが、混んでいる車内のことで、ユイの肩に触れんばかりの近さまで密着している。 次の停車駅まではしばらくあり、ドアと男性に挟まれて、ユイは身動きが取れない状態だった。
(ダメ…そんなところに立たれると…)
ユイの右手がゆっくりと動いて、腰のあたりまで下りてきた。 制服のスカートを抑えるように、太もものあたりでギュッと掴む。
(…握りたくなっちゃう!)
ユイの右手のすぐそばには、サラリーマンの男性の股間があった。 男性は片手で吊り革を握り、もう片方の手で携帯電話をいじっていて、ユイの手の動きにはまったく気がついていない。 今なら、男性の最大の急所である二つの睾丸を、ユイがその右手で握りしめることは簡単にできた。 握りしめたとき、果たして男性はどんな反応をするのか。ユイはそれを考えるだけで、心臓の鼓動が高鳴るのを抑えきれなかった。
(下からギュッと握れば、もう絶対に逃げられない。あとはマッサージみたいにグニグニしたり、手の中でゴロゴロしたりすれば…。おじさん、泣いちゃったりして…)
男にとって地獄の苦しみを与えようとしてるユイの手が、自分の股間すれすれにまで迫っているとは知らず、男性は携帯電話の画面から目を上げようとしなかった。 しかしユイにとっては、この無防備さも自分には理解できない、男性特有の性質であるような気がして、そう思うと、心の内が疼くような愛おしさを覚えてしまうのである。
(向こうに立ってる人…。すごい体格だけど、やっぱりアソコは弱いんだろうな…。あっちで座っている人も、あんなに足を開いて…。蹴られたりしたら、どんな顔するんだろう…)
車内には、たくさんの男性が乗車していたが、ユイの目にはそれらのほとんどが、急所を無防備にさらけ出している愚か者のように映っていた。 男というのは、小さな子供から老人にいたるまで、もれなく全員に金玉という脆い急所があることを、ユイはもう知っている。 それなのに、男たちはいつも不用意で、まるで自分たちに急所などついていないかのように、のんきに生活していると彼女には思えた。 電車の車内には、男性と同じくらいの数、女性がいる。こういう場所において、自分たち女性の方が、よほど自分の身の回りに対して気を付けていると思った。
女性は男性に比べて、体が小さく、力もない。だから女性の方が弱いと、誰が決めたのだろうか。 ユイは、自分がその気になれば、後ろにいる中年のサラリーマンとあと一人くらい、あっという間に床に這いつくばらせることができると確信していた。 しかもその際、睾丸を潰して、男としての一生を終わらせることさえ、決して不可能ではない。 窓の外を眺めて、勤めて平静を装いながら、ユイはそんな妄想に心を躍らせているのだった。
「次は国分寺。国分寺。お出口は右側です」
やがて電車は、ユイが降りる駅に近づいていた。開くのは、ユイがいる方とは反対側のドアだった。 この駅では毎回たくさんの人が降りるから、その流れに乗っていけばいい。 しかし、このままこの後ろにいるサラリーマンの股間に何もせずに降りるのは、どうにも名残惜しかった。 見ず知らずの男の睾丸を握りしめることは無理だとしても、何か偶然を装って、そこに一撃を加えたい。 そうして、いかに自分が油断して、無防備に突っ立っていたかを、この中年のサラリーマンに味わわせてやりたかった。
(そうだ…)
足元に置いていた学生カバンに目をやった。 黒く艶光りしている革製の学生カバンの角は、鋭い直角を描いており、しっかりとした補強がしてある。しかも真面目なユイのカバンの中には、重たい教科書がぎっしりと入っていた。
(これを使って…)
ユイは心の中でほくそ笑んだ。
「国分寺。国分寺に到着です」
やがて駅に着くと、予想通りたくさんの乗客が電車を降り始めた。 しかも好都合なことに、ユイの後ろにいた中年のサラリーマンは、電車を降りないらしい。 タイミングを見計らって、最後の乗客が降りようかというときに、慌てたふりをして足元のカバンを手に取り、振り返った。
ゴスッ!
と、鈍い音が、男性の股間に響いた。 ユイが持ち上げたカバンの角が、見事に男性の股間に命中したのである。
「んっ!!」
「あ、ごめんなさい…」
当てたユイも、当てられた男性も、お互いに顔を覗き込んだ。 しかしそれは一瞬のことで、ユイは何も分からず、ただカバンが少し当たってしまっただけ、というフリをして、そのまま電車を降りて行った。 一方の男性は、突然、股間を襲った衝撃に目を丸くした後、下腹から湧き上がってきた強烈な痛みに、内股になって体をくの字に折り曲げた。
(やった…!)
ユイは、確信に満ちた微笑みを浮かべていた。 振り向くと、電車に乗り込む乗客の背中越しに、無様に尻を突き出して背中を丸めているサラリーマンの姿が見える。 ユイのところからはその表情までは見えないが、おそらく歯を食いしばって、痛みに耐えているのだろう。 生まれたての仔馬のように、内股になってプルプルと足を震わせているのが、この上なく滑稽だった。
(ちょっとカバンを当てただけなのに…。弱いなあ、ホント…)
ユイの右手には、カバンを股間に当てたときの感触が、まだ残っている。 カバンの角のもっとも堅い部分に、グニッとかフニッとか、弾力性のあるものが当たった感触だった。 やがてドアが閉まり、電車はゆっくりと動き出した。 ユイは、苦しむ男性の姿をじっと目で追っていたが、やがて電車がホームを離れると、いかにも楽しそうな足取りで、ホームを歩き出したのだった。
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