―中国武術会で、生きる伝説、武術の神といわれている老師にうかがいます。老師にとって、武とはなんでしょう?
「ホッホッホ…。わしが武術の神とな。それは光栄なことだ。…しかし残念ながら、わしではない。もし本当に、武術の神がいるとすれば、それはあの子の中に宿っておるよ」
―あの子、とは?
「わしの弟子のひとりにな、その身に武術の神を宿した子がおる。わしもずいぶんたくさんの武道家を見てきたが、あれほどの天才を他に知らん。もちろん、わしを含めてな」
―それは、どなたのことですか? 今、どこに?
「今は日本におると聞いたかな。しかし、期待してはいかんぞ。あの子はまさしく武の化身、武術の神を体に宿しておるがな。残念ながら、神は今、休憩中なんじゃ」
―休憩ですか?
「そう。長い長い武の歴史じゃからな。神も少しくらい休憩してもかまわんじゃろ。なあ?」
十数年前。 中国武術会にその人ありと言われたリュウ・ユンシャンは一人の弟子をむかえた。 いや、弟子というほどのものでもない。もはや老齢になり、稽古をすることも少なくなった彼のもとに、親戚の女の子を鍛えてほしいという依頼がきたのである。
「この子ときたら、まったく運動が嫌いで、外に出て遊ぼうとしないんです。家の中でテレビやマンガばかり見て。ちょっとは体を鍛えて、丈夫になってほしいと思うんですが。
「ふむ。最近の子は、まあそうしたものじゃな。どれ、わしが少し稽古をつけてやろうか」
「ああ、老師。そうして頂けると、助かります。ほら! あいさつなさい。この人は偉い武道家で、お前のひいおじいさんの弟なんだよ」
「…こんにちは、老師」
「うむ。こんにちは。これから時間を作って、わしのところに来なさい。お前に武術を教えてやろう」
「…はい」
「じゃあ、よろしくお願いします」
6歳の女の子が、中国武術界で神とまで謳われる人物に教えを受けて半年。 あるとき、老師はふと気がついた。
(コイツ、わしより強くない?)
母親の言葉通り、まったく運動をしたことがなかった女の子は、最初はぎこちなく、堅い動きで老師の真似をするばかりだったが、異様に吸収力が高い。 というより、武術の動きに関して、まるで生まれたときから知っていたかのように完璧にこなしてしまっていた。
「えいっ! やあっ!」
老師は基本的な型を教えるだけだったが、その手足の動き、重心の位置、拳や蹴り脚に体重をのせるタイミング、すべてが百万分の一の誤差もなく、完璧だった。
(わしがこの域に達するまで、30年はかかった…)
あるいは達人と言われる老師だからこそ、それが分かったのかもしれない。 武術に身を捧げて数十年、若いころのような力は失われたが、だからこそその技は徹底的に無駄を排した鋭さがある。 果てしない修練の末、たどり着いた珠玉のような動きを、少女は完璧にトレースし、今ではさらにその先に行こうとしているように見えた。
「のう、小猫よ。ちょっとわしに打ってこんか」
小さい猫と、老師は少女をそう呼んでいた。
「はい。え…と。突きですか?」
「なんでもよい。好きに打ってこい」
技の動きだけではまだ何とも言えぬ、と老師は思った。 彼自身、若いころには武者修行と称して、ずいぶんと無茶な勝負をした。 その数は、とてもすべては思い出せないほど。人には言えぬが、決闘の末、殺めてしまった相手も、片手ではおさまらぬほどにいる。 そんな老師が、久しぶりに手合わせをしたいと思う欲にかられたのは、自らの弟子である、6歳の女の子だった。 しかも彼女は、武術を始めてまだ半年だった。
「はい。…えい!」
少女の拳が、師匠の腹をめがけて突き出された。 パシっと、老師はその皺だらけの掌で、小さな拳をとめた。
「……!」
ヒヤリとした。 いまの拳のように、正確に、完璧な角度でみぞおちを狙われたのは、いつ以来か。老師はちょっと思い出せなかった。 型は教えたが、人体の急所まで教えたことはなかった。
「…続けなさい」
老師は腰を落とし、かまえた。 彼がこれほど本気で武術のかまえを取るのは、おそらく10年ぶり以上のことだった。
「はい。…やあっ! とっ!」
かわいらしい掛け声とともに、少女は攻撃を繰り出した。 その一つ一つが、老師が教えた型の中にある動きではあったが、ここまで正確に人の急所を狙えるものか。 しかも彼女は、人に向かって拳を打つのは、これが初めてではないのか。 少女の攻撃を受け止めながら、老師は驚愕の思いを隠せなかった。 しかも。
「しっ!」
昔の血が騒いだのか、少女の蹴りを受け止めると同時に、老師は突きを少女の顔面にはなってしまった。 しまったと思ったが、少女は意外そうな顔もせず、老師の拳をスッとよけた。
「む…!」
決して手加減したわけではなかった。 むしろ無意識に出した拳の方が、実戦ではよく当たることがある。 それをこの少女は、なんなくかわしたのだ。人から殴られるということ自体、初めてであるかもしれないのに。
「小猫、少し、避けてみい」
老師はそう言うと、先ほどのような突きを、少女の顔面に向けてはなった。 もちろん当たりそうなときは、寸止めにする準備はしている。 しかしそんな心配もなく、少女は次々に繰り出される老師の突きを、何気なくかわし続けた。
「ふむ。なかなか。わしの拳が見えておるか?」
「はい。あの…もっと速く突いても大丈夫ですよ?」
老師は驚いた。 手加減したつもりはなく、今、打てる最大限のスピードの突きと言っても過言ではなかった。 それをなんなくかわしてしまうとは。
「ふむ。よかろう。今日はこれまでにしようか」
「はい。ありがとうございます」
少女はにっこりと笑って、頭を下げた。
(この子は天才じゃな。しかも天才の中の天才。武術の大天才とは、この子のことじゃ)
長い武術経験の中で、老師は才能というものの存在に気がついてはいた。自分自身、人よりもそれが多く生まれついているという自負もあったが、その自信は、今、打ち砕かれた。 あるいは歴史上でも類を見ないほどの武術の才能が、ここにある。それが自分の弟子であるということが、彼ほどの年齢になれば、素直にうれしく思えた。 この子を鍛えて、歴史的な武道家にしてやろうという気持ちが、なかったわけではない。 しかし。
「小猫よ、武術は楽しいか?」
「…うーん。あんまり楽しくない」
この瞬間の方が、老師はよほど衝撃を受けた。 これほどの才能を持って、これほどの動きをして、この年ですでに世界中の凡百の武道家を上回る実力を備えていて、それでも武術が楽しくないということらしい。
「テレビを見てる方が、楽しい。わたし、アイドルが好きなの。わたしもあんな風になりたい」
目を輝かせて語る表情は、武術を教わっている時より、よほど楽しそうだった。 才能というのは、人生というものは奇妙なものだと、老師は改めて実感した。
(この子の中にいる武術の神は、今は眠っておる。いずれ、起きるときがくるかどうか)
老師は心の中でため息をついた。 自分が生きている間に、この武術の神が目覚めることを願ってやまなかった。
とある蒸し暑い夜。 コンビニの近くにある古い公園に、アイドルを目指す女の子、リュウ・シンイェンが立っていた。 耳にはコードレスのイヤホンをつけて、目をつぶり、何やらリズムを取っている。 と、突然彼女は体を動かし始めた。
シュッ! バッ!
と、身につけている大きめのコンビニ店員の制服が、衣擦れる音が響く。 その動きの素早さ、キレ。正統派中国拳法の型の稽古かと思われたが、よく見れば、それはテレビのアイドルグループの振り付けのようだった。 しかし異様なほどに、体幹や重心がブレない。 動きに、まったく力みがない。 無駄な動きが一切消えている。 はたで見ている人間に音楽は聞こえなくても、そのリズムがはっきりとわかるくらい、完璧な動きだった。
「ン。好咧!」
踊り終えると、手ごたえがあったかのようにつぶやいた。 彼女はアイドルになるため、芸能事務所でレッスンを受けており、これはその課題か何かだったのだろう。 実際、彼女はダンスを覚えるのは得意で、ほとんどの動きを一度見るだけで再現することができた。 しかし、アイドルグループのダンスというのは、稚拙だったり未熟な部分があり、それを一生懸命やるからこそかわいらしいという面もあり、異様なまでのキレを持つ彼女のダンスがアイドルとしてふさわしいかどうかは微妙だった。
「いやあ、上手、上手。いいねえ」
と、パチパチと拍手をしながらリュウの方に男が近づいてきた。 大柄な男で、その体格から、何かスポーツをやっていることは確かだった。
「ン? ありがとうございマス。わたし、リュウ・シンイェエンといいマス。アイドル目指してマス!」
夜の公園で、突然男から声をかけられても、リュウに慌てたり恐れたりする様子はなかった。 むしろこうやって自己紹介をすることがアイドルの使命だと思っているらしかった。
「へー。リュウさんはアレ? 中国の人なの?」
「そうですネ。わたし、中国から来ました」
「へー。そうなんだ。かわいいねぇ。へー」
男は酔っぱらっているようだった。 顔を赤くしながら、リュウの体を舐めるように観察していた。
「そうですか? ありがとうございマス」
リュウはにっこりと笑った。 その笑顔を見て、男は唇を舌で舐めた。
「いや、ホントかわいいよ。アイドルみたいだね。でさぁ、よかったらちょっとご飯でも食べに行かない? 今から」
「ン? 今からですか? スイマセン。今、仕事中なので。わたし、休憩してる。もう戻らないと」
「ああ、そうなの? そこのコンビニ? へー。まあ、いいじゃん。サボっちゃえばさ」
男は相当酔っぱらっているのか、ろれつの回らない様子で言うと、リュウの腕を無造作に掴んだ。 その顔には、いやらしい笑顔が張りついている。 しかし、次の瞬間。
ブン! と、大きな体が空を切って回転し、男は地面に尻もちをついた。 しっかりと握っていたはずのリュウの腕は、いつの間にか外されていた。
「お兄さん、オサワリはやめてくださいネ?」
男を見下ろして、リュウは言った。目の奥は笑っていなかった。 そのまま立ち去ろうとすると、男は慌てて立ち上がった。
「ちょっ! 待てっ!」
自分の半分も体重がないような女の子に投げられたがショックだったのか、男は背中を向けたリュウの肩に乱暴に手を伸ばした。
ピシッ! と、男の手はリュウの肩に触れる寸前で、弾き飛ばされた。 そして気がつくと、中指を出したリュウの一本拳が男の顔面に寸止めされていた。
「わたし、酔っ払いキライ。次は当てるヨ」
厳しい表情で、リュウは男を睨みつけた。 リュウの拳は、男の顔面の急所、人中スレスレで止まっている。 男にはそれがいつの間にはなたれたのか、まったく見えなかった。
「…やるな。お前、何者だよ?」
バッと飛び下がり、男は腰を落とした。 その動きから、男が何かの武道をやっていることが、リュウにもわかった。
「わたし、リュウ・シンイェン。アイドル目指してマス」
「へっ! 今のがアイドルのパンチかよ。俺は相塚っていうんだ。知らないだろうが、空手の世界ではそこそこ有名なんだよ」
「フーン。じゃあわたし、仕事戻りますヨ」
「待てよ! せっかく日本に来たんだから、空手のことも勉強していきな。おらっ!」
男、相塚はもう酔いがさめたようで、しっかりとした腰つきから、リュウの顔面めがけて正拳突きをはなってきた。 しかし次の瞬間、車にでも跳ね飛ばされたような衝撃を感じ、後ろに3メートルほども吹っ飛ばされてしまう。
「くっ…はっ!」
一時的な呼吸困難に陥ったようで、胸をおさえる。 見ると、リュウが腰を落とした状態で、背中を見せて立っている。 向かってくる相手にカウンターで体当たりをする中国拳法の技を、見たことがあるような気がする。
「空手は知ってマス。ユーチューブで見た」
「く…そ…!」
相塚は苦しみながらも立ち上がり、再びかまえをとった。
「エー、まだやるの?」
「まだ…だ! 本当の空手を見せてやるぜ!」
相塚は普段から相当稽古を積んでいるのだろう。自分の技が通用しないはずがないというプライドを守るため、必死の形相で向かってきた。
「せいっ! らぁっ!」
前蹴り、突き、と次々に攻撃を繰り出すが、リュウはそれをことごとく避けてしまっていた。 そして。
ズン! と、みぞおちに、リュウの正拳突きが決まった。 それはまさしく日本伝統空手の突きで、非の打ちどころのないきれいな突きだった。
「がはっ!」
リュウの小さな拳が完璧にみぞおちに入ったようで、相塚の呼吸が止まり、膝をついてしまう。
「空手って、コレでしょ? もう知ってるカラ。見なくてもいいデス!」
相塚はあるいは肉体以上に、大きな精神的ダメージを負っていた。 自分より年下の、これほど細い体つきをした少女に、自分は膝をつかされている。 しかも少女がはなった正拳突きは、自分でもよほど調子のいいときにしかできない突きで、実戦でできることなど考えられないくらい、理想的すぎる正拳突きだった。
「く…まだ…終わってないぜ…!」
もはや少女を制圧してやろうという気持ちは消え去り、むしろ強大な相手に胸を貸してもらいたいとさえ、相塚は思っていた。 しかし、リュウにとっては本当に迷惑だったようで、
「なんなんデスカ、もう! ホントにうざい! バカ! もう休憩時間終わってるんですケド!」
「へ…そうかい…。おれはまだまだいけるぜ…」
相塚の意識は、もはや朦朧としているようだった。 武道家としての本能で、強者に立ち向かおうとしているのかもしれない。
「うるっさい! もう! …次で終わりにしマス!」
リュウは怒りながら何かに気がついたようで、初めて中国拳法のかまえをとってみせた。
「お…!」
その姿はまさに達人で、一分の隙もなく、相塚のように武道をやっているものから見れば、神々しくさえあった。 こんなかまえに対して打ち込めることなど、そうそう経験できることではない。 どんな反撃がくるかと、むしろ心待ちにするように、相塚は正拳突きを打ち込んでいった。
「せいっ! …うっ!?」
相塚の拳がリュウの顔面に届く寸前、リュウの前蹴りが、股間に突き刺さっていた。 スピード、角度、タイミング、打点。どれをとっても完璧な、金的蹴りだった。
「うぐぅ…!!」
予想していた以上の苦痛に、相塚は膝をついた。 年下の少女の前で両手で股間をおさえてうずくまるという屈辱は、この痛みの前ではまったく意味をなさなかった。 もはや全身に痛み以外の感覚はなく、脂汗で顔面が土にまみれようとも、それを払うことすらできなかった。 さらに、
「オマエ、しつこい!」
リュウの手が、うずくまる相塚の尻の方から伸び、その睾丸を捕まえた。
「はぐうっ!!」
どうやって股間をおさえる相塚の両手をすり抜けたのか分からなかった。 そしてこの握り方。 リュウの握力は決して強いというわけではないが、男の睾丸を知り尽くしたかのように、しっかりとピンポイントで圧力を加えている。 男の一番痛い部分、急所の中の急所を把握していなければできない技だった。
「わたし、すごい迷惑シタ! もうゼッタイ来ないでヨ!」
「は、はいぃ! はいっ!」
男の睾丸は楕円形で、袋の中で逃げるため、普通は掴みづらい。 しかしリュウはその小さな手で、少しも逃がさずに相塚の睾丸を二つとも握り続けている。
「あと、わたしに負けたコト、誰にも言わないでヨ? わたし、アイドル目指してるから。アイドルが男より強いと困る。でしょ?」
「はい…。そう…ですね…あっ!」
相塚の意識が飛びそうになるたび、地獄のような痛みが股間を襲ってきた。 それを聞いて満足したのか、リュウは相塚の睾丸をはなしてやった。
「はっ! ううぅ…」
相塚はもはや何も言えず、涙と鼻水を流しながら、その場にうずくまってしまった。
「お疲れ様デシタ」
リュウはちょっと頭を下げると、仕事に戻るのだろう。公園を立ち去って行った。
「ああ…。そういうことがあったんですね」
夜のコンビニのアルバイト中、リュウの話を聞いて、キヨシはようやく納得できた。 その相塚の空手仲間が、先日コンビニを訪れたヨウスケや道端で突然襲ってきた男だったのだろう。 状況から推測すると、彼らは相当な空手の使い手だったと思われるが、結局リュウに触れることすらかなわなかったのだ。
「ハイ。ありマシタ。わたし、その時気がついた。早く終わらせるには、金玉蹴るのが一番いいって。どんなに丈夫な男でも、金玉蹴られたら諦めるネ。金玉、便利!」
「ああ、それはまあ、そうかもしれないですね…」
キヨシの股間で、金玉袋がキュッと縮こまったような気がした。
「でも、リュウさんはホントに強いんですね。どうしてそんなに強くなったんですか?」
「ウソ! わたし、ぜんぜん強くない。わたしの先生の方が、もっともっと強いヨ」
「へー。そうなんですか」
それが本当なのかどうか、本当だとして、その先生の強さはどれほどなのか、キヨシにとっては想像もできなかった。
「でもわたし、強いと弱いとか、どうでもイイ。試合するのもキライだったし、いつも先生に怒られてた。わたし、どうしてもアイドルになりたかったから、日本に逃げてきたヨ」
「そうなんですね。まあでも、この間みたいなことはそうそう…」
言いかけたとき、コンビニの来客を告げるベルが鳴った。
「いらっしゃいませー。…あ」
振り向くと、大柄な男が眉を吊り上げ、いまにも飛びかかってきそうな表情で立っていた。
「リュウってのは、お前か?」
虎が吠えるように、男は叫んだ。
「あ、いえ…違いますけど…」
キヨシがリュウの方を見ると、リュウは深いため息をついていた。
終わり。
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