「ここだ!」
何回目かの中段回し蹴りをガードした時、ランは突然一歩踏み込んで、がら空きになっていたケンタロウの股間に、右前蹴りを叩きこんだ。
パシン!
という音が、武道館に響き渡った。 ケンタロウは一瞬、何が起こったのか分からないようだった。 今まで気持ちよくランを追い詰めていたつもりだったが、突然、股間に衝撃を感じたのである。 ランの右足は、ケンタロウの股間にぶら下がっている睾丸をきれいにとらえ、小さな袋に入った卵のような塊を二つとも跳ね上げた感触があった。
「て、てめえ…!!」
ケンタロウは強烈な怒りをランに感じた。 それは急所を攻撃されたという、生命の危機に瀕した男の本能的な怒りだった。 すぐにでもランの顔面に拳を打ち込んでやりたいほどの衝動に駆られたが、突如、下腹部からきた強烈な痛みの波に、体の自由を奪われてしまう。
「ぐあ…! あ…!」
ケンタロウは思わず、股間を両手でおさえてひざまづいてしまった。
「一本!」
審判役のユナが右手を挙げた。 同じく審判をしていたハヤトは、何が起こったのか分からなかったが、慌てて右手を挙げた。 いかにケンタロウをひいきしようとしても、これは明らかなランの一本だった。
「ふう。うまくいった」
ランはため息をついて、乱れた道着を整えた。 すべて彼女の作戦通りで、その顔には先ほどまでと違い、余裕すら感じられる。
「ぐぐぐ…!!」
一方のケンタロウは、悲惨な状態になっていた。 股間の二つの睾丸から湧き上がってくる痛みはとめどなく、彼の全身に広がり続けている。それ以外、何も考えられないほど強烈な痛みだった。
「だ、大丈夫か?」
思わずハヤトがかけよって、うずくまるケンタロウの腰をさすってやった。 ケンタロウの顔には脂汗が浮かび、歯を食いしばって唸っているようだった。
「さて。じゃあ、早く二本目を始めよっか?」
男の最大の苦しみあえぐケンタロウを見下ろしながら、ランは平然とした様子で言い放った。 それを聞いたハヤトは驚いて、顔をあげる。
「ま、待てよ! こんなんで、できるわけないだろ、二本目なんて」
もっともな言い分だった。 この場にいる男子の空手部員全員がケンタロウの痛みを想像し、身震いしているというのに、ランはそんなことなど関係ない様子だった。
「だって、三本先取勝負じゃない。まだ、一本しか取ってないよ。早くしてよ」
薄笑いさえ浮かべながら、そう言った。どうやら彼女は、男が急所を蹴られれば、そう簡単に立ち上がることなどできないとよく分かった上で、意地悪を言っているようだった。 ハヤトはそれに気づき、思わず審判役のユナの方に助けを求めた。
「ちょっと休憩しないと、無理だよ。そうしよう?」
「え…。でも、三本先取だし、最後までやるって言ってたし…。一回蹴られただけで、そんなに痛いの…? 」
ユナはランの親友だったが、性格はごく大人しく、男の急所についての知識もまったくなかった。ただ試合前の取り決めに基づいて、正しいことを言っているのだが、この場合のケンタロウには、それは何より残酷なことだった。
「そうみたいだねー。やっぱり男はアソコを蹴られると、一発で負けちゃうってことだね。最初からそう言ってるのにさあ。ね? 痛いでしょ? 痛くて我慢できないんでしょ、タマタマが?」
ランは笑いながら、ケンタロウを見下ろしていた。
「て、てめえ…! くっ!!」
ケンタロウは悔しさのあまり、顔を上げてランを睨みつけようとしたが、少し動くだけで、睾丸の痛みが全身を貫くように増加した。 その情けない姿に、ランだけでなく、周りで見ていた女子全員、噴き出してしまった。
「なに、あの格好。丸まっちゃって。だっさーい」
「ホント。よっぽど痛いんだね」
「ちょっと蹴っただけなのにね。男子の急所って、あんなに弱いんだ」
女子部員たちの囁き声は、他の男子部員たちの耳にも入ったが、彼らにもそれを否定することはできなかった。 もし自分がさきほどのケンタロウのように蹴られたら、やはり同じように床にうずくまってしまうということは、明らかだったのだ。
「まあ、ギブアップするならそれでもいいよ。でも、最後まで試合するっていう約束を破るんだから、それなりのことをしてもらうけど? とりあえず、土下座で謝ってもらうかな。まあ、今も土下座してるようなもんだけど。アハハ」 ランの笑い声に、ケンタロウの心は徹底的に打ちのめされた。 ここは男のプライドにかけて立ち上がらなけらばいけないと思い、ハヤトの手を借りて、足を震わせながらゆっくりと起きあがった。
「く…! だ、誰がギブアップなんかするかよ…。お前、ぶちのめしてやるからな…!」
精一杯の敵意をこめて睨みつけるケンタロウだったが、ハヤトの肩を借りてすごむその姿は、ランでなくても滑稽に思えた。
「ふーん。まだやるんだ。大丈夫なの?」
「う、うるせえっ! オラ、始めるぞ!」
ケンタロウはハヤトの手を振り払い、汗びっしょりになりながらかまえをとってみせた。 しかし、腰が完全に引けてしまっていて、隣で見ていたハヤトですら、その姿には不安しか感じなかった。
「はい。では、二本目、始め!」
ハヤトは止めようかと思ったが、何も知らないユナは、無情なほど冷静に、開始の合図をした。
「お、おう!」
ケンタロウの声は震えていた。 睾丸の痛みはまだ十分残っており、本来なら横になって休んでいたいほどのものだった。それは対峙するランにも十分伝わってくる。
「やれやれ…」
ランはこの際、どうケンタロウを料理してやるかということしか考えていなかった。彼女にはケンタロウの睾丸の痛みは分からないが、先ほどの金的蹴りの手応えから、相当の威力があったことが想像できる。 後はどうケンタロウを屈服させて、くだらない男のプライドをへし折ってやるかを考えるばかりだった。
「痛いくせに、無理しちゃって」
ランは余裕を持ってかまえた。 金的を蹴られた痛みの残る男が、ろくに動くこともできないことは、彼女は経験で知っていたのである。
「言っとくけどさ、さっきの蹴りは、けっこう手加減してあげたんだからね。思いっきり蹴ったら、アンタのタマタマがどうなるか、アタシにも分かんないよ?」
ケンタロウはランの言葉に、背筋が凍る思いだった。 今まで空手の練習で、金的に攻撃を当てられたことは何度かあったが、さっき蹴られた痛みは、その時の比ではなかった。 金的を狙って蹴られるということの危険性と恐怖を、文字通り痛いほど実感しているのである。
「ほら、いくよ」
ランはためらう様子もなく、ケンタロウの間合いに踏み込んでいった。 もはやケンタロウに先ほどのような鋭い攻撃はできないと予想しての、大胆な行動だった。
「うおっ!」
何気なく振り上げられたランの右脚を、ケンタロウは必死の思いで避けた。 それは金的を狙ったものではなかったが、すでに彼の頭には、金的蹴りの痛みが刷り込まれてしまっているのである。
「頑張ってよ。ほら、ほら」
ランはケンタロウの恐怖心を見透かした様子で、次々と蹴りを放っていった。 ケンタロウは金的だけは死守するつもりで、防御していたが、その腰は完全に引けてしまっていた。
「えー、何あれ。カッコ悪いねー」
「やっぱり、アソコを蹴られたくないんだよ、きっと。おっかしー」
周りにいる女子部員たちの囁きも耳に入ったが、ケンタロウにとってはそれどころではなかった。 何しろ、ランの蹴りを手でガードするだけで、股間に衝撃が走り、痛みがぶり返すのである。 もはや立っているのもやっとの状態だった。
「く…あ…うわっ…!」
腰を引いてランの蹴りをよけようとした時に、ケンタロウは膝をついてしまった。 普段なら何でもない動きだったのだが、やはり足に力が入らなくなっている。
「フン。さっさと立ちなさいよ」
攻撃が当たったわけではないので、一本は取れない。ランは勝ち誇った表情で、ケンタロウを見下ろしていた。 しかし、そこにランの油断があった。
「くっそー!!」
ひざまずいていたケンタロウは、その体勢から、目の前のランの両足にタックルを仕掛けたのである。
「あっ!!」
不意のことで、ランはあっという間に引き倒されてしまった。 もちろん、彼らが習っている空手にはこんな技などないが、これは反則なしの勝負だと、ケンタロウは思っていた。
「どうだ! 捕まえたぞ!」
ケンタロウはランの腹に馬乗りになって、見下ろした。 まだ股間の痛みは残っているが、立っているよりはマシである。我ながらいい作戦だと確信した。
「卑怯よ、そんなの!」
周りの女子部員から声が上がったが、審判役のハヤトはもちろん、ユナでさえも反則は取れなかった。 もともとこの勝負は反則なしで、二人の役目は、攻撃が当たったことを宣告することだけなのである。
「うるせえ! この試合は、ルールなんかないはずだろ! 卑怯もなにもあるかよ!」
その言葉に、ランも言い返すことはできなかった。 何より彼女は、タックルで倒された時に、頭を打つことだけは回避したものの、背中を打ちつけて、軽い呼吸困難を起こしてしまっていたのだ。
「さっきはよくもやってくれたな。倍にして返してやるよ!」
ケンタロウは意地悪く表情を歪ませると、大きく右手を振りあげて、ランの顔面を狙った。 バチンッと大きな音を立てて、強烈なビンタが入る。 さすがに拳を打ち込むことはケンタロウも遠慮したのだが、女子の顔にビンタをするということは、十分に衝撃的なことだった。
「きゃあっ!」
呼吸困難に陥っていたランも、この一撃で目が覚めた。 自分がどんなに危険な状況に置かれているかを確認し、両腕で頭をガードした。
「このっ!!」
ケンタロウは両手を使って、ランのガードの隙間から彼女の頭をさんざんに叩いた。 その様子は完全に空手などではなく、子供のケンカそのものだった。 審判役のユナもハヤトも、どの攻撃で一本を取るべきなのか迷っているようで、もはやこの試合の勝敗は、戦っている両者にゆだねられたような形になっていた。
「くそっ! この野郎!」
ランは必死でガードしていたが、ケンタロウもまた必死だった。 ガードが固く、なかなか威力のある攻撃が当てられないと思うと、ケンタロウはランの髪の毛を掴んで引っ張った。
「あっ!!」
ランは鋭い痛みに、思わずガードを解いて、ケンタロウの腕を掴んだ。 ケンタロウは、これが効果的と見ると、両手で思い切り髪の毛を引っ張る作戦に出た。
「どうだ! ギブアップしろ!」
ケンタロウは叫んだ。 ランは歯を食いしばって痛みに耐えていたが、やがてあることに気がついて、ケンタロウの股間に目をやった。 今、ケンタロウの股間はまったく無防備に、ランの腹の上にある。蹴りとばすことは無理だとしても、手を伸ばせば届く位置にあった。
「このっ!」
ランはケンタロウの腕から手を離すと、素早くその股間に右手を伸ばし、その手がコロっとした柔らかいものに当たると、それを思い切り握りしめた。
「ぎゃあっ!!」
今度はケンタロウが、痛みに身をよじる番だった。 ランは髪の毛を掴まれた怒りにまかせて、ケンタロウの睾丸の一つを、ギリギリと握りしめている。
「放してよ!」
少しの間、ケンタロウとランの我慢比べのような形になったが、やがて少しずつ、髪の毛を掴むケンタロウの手から力が抜け始めた。 するとランは、今度は両手をつかって、ケンタロウの睾丸の二つとも握ることにした。
「放せって言ってんの!」
「はうぅっ!!」
怒りと共に睾丸を握りしめると、ついにケンタロウはその手を髪の毛から放してしまった。 睾丸を掴むランの手を引き離そうとするが、この状態では、腕に力など入らない。 やがてランは体を起こして、ケンタロウの馬乗り状態から脱出した。もちろんその間も、しっかりと睾丸を握りしめ続けている。
「ひいっ! うう…!」
「よくも…! よくもやってくれたね! さっきアタシは、手加減してあげたってのに。女の子の顔を叩くなんて、超サイテー!!」
ランの頬には、くっきりと先ほどのビンタの跡が残っていた。 その目は怒りに満ち満ちており、ケンタロウがいくら情けない悲鳴を上げても、決して手を緩めようとはしない。
「そうだよ、ラン。女の顔を叩くヤツなんか、サイテー!」
「そんなタマ、潰しちゃえ!」
「潰せ! 潰せ!」
外野の女子部員からも応援の声があがり、やがてその声は合唱となって武道館に響いた。ケンタロウは痛みに苦しみながら、自分がしでかしてしまったことの重大さに気がついた。 睾丸そのものも痛いが、下腹部から沸き上げってくるような鈍痛は耐えがたいもので、それはケンタロウの血液を逆流させ、吐き気さえ催すほどのものだった。
「そうだねえ。思いっきり握ったら、潰れるかなあ?」
ランは意地悪そうな笑いを浮かべる。 自分に地獄のような苦しみを与えているラン自身は、この痛みを理解することなど一生ない。それは周りで見ている女子達も一緒で、だからこそ潰せなどと叫び、躊躇せずに睾丸を握りしめることができるのだ。 ケンタロウは改めて、女の残酷さに恐怖する思いだった。
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