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男の絶対的な急所、金玉。それを責める女性たちのお話。

とある地方のプロレス団体。
メジャーではないながらも、実力のある本格的なプロレスが楽しめるということで、一定の人気を保っている彼らの試合は、主に地元の体育館などを使って行われていた。
この日は、今年のファイナルマッチと銘打って、団体の中のチャンピオンと挑戦者が戦うことになっているはずだった。

「オラァ!!」

「オオォ!!」

リング上で、鍛え上げられた肉体を持った二人の男が、汗みどろになって組み合っていた。
チャンピオンの小林と挑戦者の岡田の試合は、すでに終盤に差し掛かっており、二人はさまざまな技の応酬の末、最後には肩をぶつけ合って掴みあう体勢になっていた。

「おおりゃ!!」

ついに小林が、気合と共に前かがみになっていた岡田の巨体を高々と持ち上げた。
そしてそのまま、マットめがけて、岡田を頭から叩きつける。いわゆるパワーボムという技で、これはチャンピオン小林の必殺技だった。

ドスン!

と、重たい音が会場内に響き、岡田は動かなくなった。
そこへ素早くレフェリーがかけより、叫ぶように3カウントを取る。
直後にゴングが鳴り、小林の勝ちが決まった。

「おっしゃー!!」

小林は高々と手を挙げて、勝ち名乗りを受けた。
今年で26歳になる彼は、若いながらもこのプロレス団体を引っ張る存在として、大きな期待を寄せられている存在だった。
すでにファンも大勢おり、今日の会場にも、たくさん詰めかけている。
それらのファンが、手拍子をし、「小林」コールが巻き起こった。

「こ・ば・や・し! こ・ば・や・し!」

小林もそれに応えて手を振るが、会場内には、その手拍子にまったく乗ってこない観客たちもいた。
よく見れば、200人ほどいる体育館の観客の中で、その半分ほどは女性だった。しかも、一見してプロレスには縁がなさそうな、若い女性ばかり。
それらの女性客は、まるで何かを待っているかのように、立ち上がる男性客につられることなく、じっと席に座り続けていた。
やがて。
突然、会場内の照明が落ち、ポップなテーマソングが流れ始めた。
それは、今試合が終わったばかりだというのに、新たなレスラーの登場を予感させるものだった。

「来た来た来た来たー!!」

いつの間にか、リングサイドにスーツ姿の女性が、マイクを握って立っていた。
珍しい、女性のリングアナウンサーだった。

「お集まりの女性のみなさん、お待たせしました! ファイナルマッチの今宵も登場です!」

体育館の入り口にスポットライトが当たると、そこにはすでに、全身ピンク色のコスチュームに身を包んだ、マスクレスラーが立っていた。
その姿を見つけると、観客席の女性たちは総立ちになる。
逆に男性客からは、ブーイングともつかぬ吐息が漏れていた。
ピンク色のマスクレスラーは、リングに向かって走り出した。

「最強のプロレスラーは、男か女か。その答えを出すために、今日はチャンピオンを倒しに来た! 華麗な空中殺法と必殺の足技が、今日も炸裂するのか! ピンクーファルコーン!!」

リングアナの紹介と共に、マスクレスラーは軽やかにロープを飛び越えた。
同時に、会場内に照明が戻り、マスクレスラーの姿が明らかになる。

「ファルコーン!」

「今日もやっちゃってー!」

観客席の女性たちから、黄色い声が飛んだ。
その声援に手を振って応えるマスクレスラーは若い女性で、極端に小さなビキニタイプのコスチュームを身につけており、鳥の羽を模したデザインのマスクをかぶっていた。
そして、そのマスクからブーツにいたるまでがすべて鮮やかなピンク色で、それが彼女の白い肌によく映えていた。

「チャンピオン! どっちが強いか、ハッキリさせましょうか?」

リングに上がって早々、小林に向かってそう言い放った。
ピンクファルコンと呼ばれた彼女は、モデルのような長い手足と引き締まった腹筋をしていたが、どう見ても筋肉隆々の小林の相手になるとは思えなかった。

「出やがったな、このアマ! ふざけんじゃねえ!」

すでに岡田との長時間に及ぶ試合を終えて、殺気立っている小林は、今にも掴みかかりそうな勢いだった。
慌ててレフェリーが、二人の間に入る。

「チャンピオン小林と、ピンクファルコンのエキシビション! 正真正銘、これが本当のファイナルマッチだ!」

リングアナの絶叫と共に、ゴングが鳴った。

「…この野郎! いつもいつも邪魔しやがって。一体、何モンだ、てめえは!」

ゴングを聞くと、小林は少し冷静さを取り戻したようだった。
本気でこのピンク色のマスクレスラーの正体を知らないようだったが、プロレスはどこまでが筋書きで、どこからが違うのか。普通はよく分からないものだった。

「さあね。気になるなら、このマスクをはいでみれば?」

ピンクファルコンは、挑発的に笑った。
実際、彼女の体は、小林のような若い男にとっては挑発的なほどグラマーで、彼女もそれを意識しているのか、仕草のいちいちが官能的だった。
しかし小林にとっては、そんなセクシャラスな要素を持った人間が、自分が守るリングに上がること自体、許せないようだった。

「おらぁ!」

まずはあいさつとばかりに、小林のケンカキックが飛んだ。
ピンクファルコンはこれをギリギリでかわすと、すかさずその足首を掴んだ。

「うっ!」

その足首を両手で掴んだまま、しっかりと固定し、素早く体ごと回転する。
一歩間違うと膝を壊されかねない、流れるようなドラゴンスクリューだった。

ドン!

と、小林は素早く自ら回転し、受け身をとった。
立ち上がって振り返ると、ピンクファルコンが見下すような目で微笑んでいた。

「カモーン!」

そして、余裕を見せるように手招きする。
しょせんは女性と思って、どこかで油断していた小林は、完全にキレた。

「うおお!」

獣のように吼えると、両手を広げて、ピンクファルコンを掴みにかかった。
彼女もそれに応じ、二人は両手を重ね合わせて、手四つの状態になる。
単純な力比べとなるこの状態なら、男であるチャンピオンの小林が有利なことは、誰の目にも明らかだった。

「おお!」

相手が女性であることも忘れて、本気の力を込めているようだった。
あっという間に、ピンクファルコンは押され気味になってしまう。
しかし。

「ファルコーン!」

「やっちゃってー!」

小林の怪力に押され、すでに片膝をついてしまっているピンクファルコンに、女性客たちは相変わらず期待を寄せているようだった。
そしてそれは、すぐに現実となる。

「そおれっ!」

圧倒的劣勢だったピンクファルコンは、スッと片手をはずし、片膝をついた状態から、目の前にある小林の股間をかち上げたのだ。

「ぐあっ!!」

ピンクファルコンの二の腕で、小林の股間が押しつぶされた。
あっという間に小林の体から力が抜けて、両手で股間をおさえて、ひっくり返ってしまった。

「決まった―! 掟破りの金的攻撃―!」

リングアナが絶叫すると、観客席の女性たちは立ち上がって歓声を送った。
彼女たちの目当ては、この光景だったのだ。
筋肉隆々の男性レスラーが、その見た目通りに激しい試合をし、リングの上で男らしさを見せつける。
その後で、スタイル抜群の女性レスラーがそんなパワフルな男たちを、テクニックと急所攻撃で翻弄していく。
いまだに男性優位と言われている日本社会の中で働く女性たちは、マッチョな男たちをなぎ倒していくピンクファルコンの姿を見て、日頃のストレスを解消しているようだった。

「うぐぐ…」

小林は股間をおさえてうずくまり、すぐに立ち上がろうとしない。
その額には、先程までとは違う種類の汗が浮かんでいた。

「みなさん! ふつうのプロレスでは、急所攻撃といっても、手加減していることがほとんどです。しかし! 今まで何度も言ってきましたが、ピンクファルコンの金的攻撃は、ガチなんです! 今、チャンピオンの小林は、ガチで痛がっています! この試合は、ピンクファルコンのマスクと、小林の金玉! 女と男のプライドを賭けた、ガチの勝負なんです!」

盛り上がる観客を煽るように、リングアナが解説をした。
彼女の言葉が、いわばこのプロレス団体の方針で、男対女という図式を出すことで、今までプロレスに興味のなかった女性客を取り込もうとする戦略だった。

「さあ、立てるか、小林!」

小林がうずくまって苦しんでいるのを、ピンクファルコンは大きく足を広げて、膝を曲げながら見下ろしていた。
自分の股間を見てみろとばかりの、挑発的な態度だった。

「小林! 小林!」

苦しみ続ける小林に、男性客から声援が送られた。
その声援に押され、ようやく小林は立ち上がった。

「く…そ…! てめえっ!」

片手で下腹部をおさえながら、ピンクファルコンを睨み付けた。
するとファルコンは、おもむろにロープに近づき、リングサイドにいたアナウンサーに何かを要求した。

「ねえ、アレ。持ってない?」

そう聞かれると、リングアナはまるで予期していたかのように、ジャケットの胸ポケットから取り出したものをファルコンに手渡した。

「ほら。着けたら?」

そう言って、ピンクファルコンが小林に差し出したものは、男性用のファウルカップだった。
白いプラスチックでできたそれは、ファルコンの小さな手の中でいかにも不格好に光を反射している。

「てめえっ!」

小林は激怒した。
「これを着けて、ようやく自分とお前は対等だ」という、ピンクファルコンお得意のパフォーマンスだった。
これを見た女性客の間から、失笑が漏れた。

「チャンピオン、着けてー!」

「潰されちゃうよー! 着けた方がいいよー!」

一方の男性客たちは、男のプライドを傷つけられたような気がして、ピンクファルコンに罵声を飛ばした。

「ふざけんな、ファルコーン!」

「男をなめんじゃねえよ!」

もちろん小林も、彼らと同じ思いだった。

「そんなもん、着けるか!」

小林はピンクファルコンの手からファウルカップを叩き落すと、そのまま彼女の手首を掴んで、グッと引き寄せた。

「おおりゃあ!」

体重の軽い女性とはいえ、片手でファルコンの体をグルグルと引っ張りまわす。
小林の怪力のなせる技だった。

「おらぁ!」

何回転かの後、そのままの勢いで、ピンクファルコンをロープに向かって投げた。
ピンクファルコンはロープに当たる寸前で身をひるがえしたが、反動で、再び小林のもとに戻ってしまう。
返ってきたファルコンにラリアットか投げ技をきめようというのが、小林の作戦だった。
しかし。

「たあっ!」

ピンクファルコンは、その名に恥じることのないジャンプ力で華麗に舞うと、ロープの反動を利用したジャンピングドロップキックを、小林の顔面に放った。

「ぐおっ!」

プロレスには、基本的に防御はない。
この場合も、小林は眼前に迫っているピンクファルコンの両足を避けようともせず、ただ歯を食いしばって顔面で受け止めたのだった。
キックを当てた後、猫のように空中で身を翻してピンクファルコンは着地する。
一方の小林は、さすがにふらついて、数歩、後ろへ下がってしまった。

「ファルコーン! カッコいいー!」

観客の声援を受けて、ピンクファルコンはさらに攻撃を続けた。





「えいっ! やあっ!」

ふらついて、腰を低くしていた小林に向かって、立て続けにローキックを放つ。

ビシッ! ビシッ!

と、肉の弾ける音が、会場内に響いた。
ピンクファルコンの革製のロングブーツが、小林の太ももの裏を直撃している。

「おらあっ! どうしたあっ!」

相手の攻撃をいかに受け止めるかが、プロレスの美学である。
小林はチャンピオンとして、ピンクファルコンのローキックをガードする気はまったくなかった。
むしろ、「もっと打ってこい」と言わんばかりの形相で、挑発している。

「……フフ!」

十発以上のローキックを放ち、小林の太ももは赤く腫れ上がってきた。
それでも微動だにしない小林に対して、ピンクファルコンは一旦攻撃を止めたが、その口には不気味な微笑みが浮かんでいる。

「それっ!」

突然、小林の背後に回り込んだピンクファルコンは、その大きく開かれた股の間を、先程までのローキックとは比較にならないほどの軽い威力で、蹴り上げた。

パシン!

と、かなり控えめな音が、会場内に響く。

「あぐっ!!」

すると、さっきまで強烈なローキックを受け続け、しかもまったく効いていなかった小林の巨体が、たった一発の軽い金的蹴りで、あっという間にうずくまってしまったのである。

「ぐぐぐ…!!」

小林は両手で股間をおさえて、正座のような姿勢でリングに膝をついてしまった。
その痛がりようと、控えめ過ぎるように見えたファルコンの蹴りが、かえってそれがリアルな金的蹴りであることを物語っていた。

「やったあ、ファルコーン!」

「さいこー!」

会場は、女性たちの笑いと男たちのため息に包まれた。

「またしても決まったー! ピンクファルコンの金的蹴りー! くれぐれも言っておきますが、金的は男の急所です。男は金玉蹴られると、痛くて痛くてたまらないんです。会場にお集まりのお嬢さま方は、決して真似しないようにしてください!」

リングアナが、またしても挑発的なコメントを付け加えた。
女性たちの笑いは、さらに大きくなる。

「立てー! 小林―!」

「意地見せろー!」

静まりかえっていた男性ファンの間から、怒りを伴った声援が飛んだ。
彼らの憧れであり、男の力強さの象徴ともいえるプロレスラーの小林が、女の金蹴り一発で負けることなど、認めたくなかったのだろう。

「ぐぐぐ…!」

小林は言われるまでもなく、チャンピオンのプライドと男の意地にかけて、立ち上がるつもりだった。
気を抜くと、ブルブルと震えだしそうな膝をおさえ、前かがみになりながらも、なんとか立ち上がって見せた。

「おお。じゃあ、いつものアレ、行こうか!」

と、小林が立ち上がったのを見て、ピンクファルコンが観客席に向かって音頭を取り出した。
「椅子から立ち上がれ」と、両手でアピールする。
ピンクファルコンの試合を見慣れている女性たちが、いち早く立ち上がった。

「いくよー! せーの! ぴょーん!」

ピンクファルコンは、両手で股間をおさえ、少し背中を曲げながら、その場でジャンプをし始めた。
観客席にいた女性たちも、それに合わせて、同じようにジャンプする。

「はい、ぴょーん! ぴょーん!」

まだ股間に痛みの残っている小林の隣で、ピンクファルコンが股間をおさえて飛び跳ねている。
これも彼女の得意のパフォーマンスで、金的蹴りを食らった男が、金玉を降ろそうと飛び跳ねるのを真似して、おちょくっているのだった。
いつのころからか、それに観客席の女性たちも加わるようになり、会場内は、笑顔で飛び跳ねる女性たちと、それを苦々しく見つめる男性たちにくっきりと分かれてしまっていた。

「どうしたの? 飛ばないの? ほら、一緒に。ぴょーん!」

小林の目の前で、薄笑いを浮かべながら、楽しそうに飛び跳ねる。
男にとって、これ以上の屈辱はなかった。

「て、てめえっ!」

カッとなった小林は、股間の痛みを引きずったまま、気合で立ち上がった。
そして、目の前にいるピンクファルコンの股間に片手を入れ、もう一方の手で首筋を掴み、一気に持ち上げた。

「うおおっ!」

軽々と、ピンクファルコンの体を頭の上まで上げて見せた。
その時。

「やめてよ、ヘンターイ!」

「どこ掴んでんのよー!」

観客席の女性たちから、悲鳴のような声が飛んだ。
小林の手は、ピンクファルコンの首と、そのビキニパンツのようなコスチュームのお尻にかかっており、見方によっては女性のいやらしい部分に手をかけているようにも見える。
しかしそれは、プロレス技のボディスラムのかけかたとしてはごく自然な行為で、この会場に集まっている女性たちが、どれだけプロレスに関しての知識がないかを示しているようだった。

「いいぞ、小林!」

「そんな女、やっちまえー!」

ピンクファルコンも、あるいは先程のような華麗な身のこなしを使えば、技を抜けられるのかもしれないが、彼女もまたプロレスラーとして、小林の技を受けてみせるつもりかもしれなかった。

「おりゃあ!」

バタンッ!

小林はピンクファルコンの体を、投げ捨てるようにしてマットに叩きつけた。
さすがのファルコンも、堅いマットに背中から叩きつけられて、軽い呼吸困難に陥る思いだった。

「く…あ!」

演技なのかどうか、苦しみながら起き上がろうとするファルコンに、小林は容赦なくストンピングキックをみまった。

「ぐあっ! あっ!」

ますます苦しむピンクファルコンの姿に、女性客たちから悲鳴が漏れる。
逆に男性客たちは、今こそと立ち上がって、小林を応援した。

「まだまだぁ!」

何発目かのキックを放った後、小林はうつ伏せになっていたピンクファルコンの首をねじ上げ、その太い腕に挟んで、グラウンドのヘッドロックをしかけた。

「ああっ!」

ヘッドロックは、地味だが本気できめれば激しい痛みを与えることができる。
もちろん、演技としてやっている場合も多いが、今の小林には、そんなつもりは毛頭なかった。
相手が女であることも忘れて、怒りのままに本気のヘッドロックをしかけているのである。

「おおーっとー! チャンピオンのヘッドロックー! これは痛い。痛そうにしているぞ、ピンクファルコーン!」

事実、ピンクファルコンのマスクの上からでも、彼女の顔が苦痛にゆがんでいるのが分かった。小林の丸太のような二の腕と、分厚い大胸筋に頭を挟まれて、痛くないはずがない。
小林にとっては、ダメージを与えると共に、先程へし折られた男のプライドを取り戻すための、重要な儀式のような技だった。

「く…く…」

ファルコンは頭を挟まれたまま、必死に手を伸ばして、ロープを取ろうとしていた。
ロープに少しでも手がかかれば、ブレイクとなって技を解くことができる。
この駆け引きも、プロレスの醍醐味だった。

「ファルコーン! 頑張ってー!」

「あとちょっと! あとちょっとで届くよー!」

女性客たちは、祈るような思いでファルコンの手が伸びるのを見つめていた。
しかし、普段ならある程度の時間でロープブレイクを許し、試合を盛り上げようとする小林も、今度ばかりは簡単にロープまでいかせなかった。
もっとファルコンを苦しめてからでないと、気が済まないらしい。

「うう…!」

そういう小林の魂胆が、当然、ピンクファルコンにも伝わった。
ついにロープに手が届かないとみると、諦めたようにガックリと腕を降ろした。

「いけー! 小林―!」

男性客の声援に応えて、さらにファルコンの頭をねじ上げようとした瞬間。
ファルコンの手が、小林の股間にすっと伸びて、その膨らみをギュッと握りしめた。

「おぉうっ!!」

思わず小林は、声を上げる。
一瞬、ヘッドロックの腕が緩んだ。

「ああっと、これはー! ピンクファルコンの金玉潰しだー! これは危ないぞ、チャンピオーン!」

「うーっ!」

少しだけ緩んだ腕の下で、ピンクファルコンが唸り声を上げた。
小林の急所を掴むその手には、腕の筋がくっきりと見えるほどに力が込められている。

「はううぅっ!! は、離せぇっ!!」

「そっちこそ、離せー!」

小林はわずかに残された男の意地で、ヘッドロックを解かなかったが、もはやそれも時間の問題だった。
ギリギリと締め上げられているその股間からは、例えようのない激しい鈍痛が、内臓全体を掻き回すように広がっていく。

「いいぞ、ファルコーン!」

「そこよ、そこ! 握り潰しちゃえー!」

ついさっきまでピンクファルコンが劣勢だっただけに、女性客たちのボルテージは上がった。
それに応えるように、ピンクファルコンもさらに力を込める。

「ぬうぅー!」

ついに、小林の両手がファルコンの頭から離れた。

「あうぁー!!」

自分の股間を掴むファルコンの手首を握り、必死に引き離そうとするが、それはかなわなかった。
やがて、ヘッドロックから解放されたピンクファルコンが起き上がると、それにつられて、小林も立ち上がらざるをえなくなる。
しかしその両脚には、すでに力が入っていない様子だった。

「おおっと! 握りしめ合いでは、ピンクファルコンに分があったかー!」

リングアナがそう叫ぶと、ピンクファルコンは勝ち誇ったように片手を上げた。
その姿に、女性客たちは拍手を送る。

「それもそのはずです! 金玉は男の急所! ちょっと握られただけでも激痛が走るのです! どんなに鍛えても、我慢できない痛みなんです! まあ、我々には分かりませんが」

どっと、女性客たちから笑いが起こった。
リング上で金玉を握りしめられ、苦痛にゆがむ小林の顔が、彼女たちにとっては滑稽なものとしか映らないようだった。
一方の男性客たちは、小林の痛みを想像して、思わず自分の股間に手を当ててしまう者もいた。
そしてそんな姿を隣に見て、笑いあう女性客たちもおり、会場内は、一種独特な空気に包まれているようだった。

「ギブアップか? どう?」

握りしめ続けて数十秒。ピンクファルコンが小林に顔を近づけて、尋ねた。

「はあっ…うう…!」

「ギブアップしないと、潰れちゃうわよ? んん?」

楽しそうに笑うピンクファルコンとは対照的に、小林はもはや瀕死のような状態だった。
文字通り血を吐くような練習で鍛え上げた肉体など、何の役にも立たなかった。数々の屈強なプロレスラーたちをねじ伏せてきた小林の怪力も、女一人の握力を引きはがせずにいる。
ピンクファルコンと、それを見ている女性たちにとって、これほどの優越感を感じることはなかった。

「ピンクファルコンの必殺技、ナッツクラッシャー! 小林の金玉を締め上げている! 締め上げているぞ!」

リングアナが絶叫すると、観客席から声が湧き上がってきた。

「つ・ぶ・せ! つ・ぶ・せ!」

女性客たちは一斉に、小林の金玉を握り潰せとコールを送る。
事実、小林の金玉の運命は、完全にピンクファルコンに委ねられていた。それは小林にとっては、この上ない恐怖だった。

「フフフ…。じゃあ、お客さんの期待に応えようかしらね!」

小林の耳元に口を近づけて、囁くようにそう言うと、金玉を握りしめるその手に、グッと力を込めた。

「ぐああぁっ!!」

小林は演技でも何でもなく、絶叫する。

「えいっ!」

グリッと、拳の隙間から金玉を押し出すようにして、解放してやった。
最後の最後、ピンクファルコンの指の隙間を通る瞬間に、小林の金玉は大きく変形することを余儀なくされる。

「うげえっ!!」

解放された瞬間、前のめりに崩れ落ちてしまった。
今、この瞬間も痛いが、それがこれから先数十分か数時間も続くことを小林は分かっており、そう考えると気が遠くなりそうだった。
すると、ピンクファルコンはうずくまる小林の背中に片足を載せて、勝ち誇ったように胸を張った。

「潰すのは勘弁してあげる。男は金玉潰されたら、終わりみたいだからね。ハハハハ!」

笑いながら、小林の背中を踏みつける。
その姿はまさに、女性の優越性の象徴だった。
観客席にいる女たちは拍手を送り、男たちは、悔しそうに歯噛みしながらその光景を見つめることしかできなかった。
と、その時。

「こらぁ!」

突然、ピンクファルコンの背後から、一人のレスラーが襲いかかった。
体当たりをされて、ファルコンはなす術もなく吹っ飛んでしまう。

「てめえ、こらぁ! なめんじゃねえっ!」

それは、先程まで小林と死闘を繰り広げ、敗北した岡田だった。
岡田は自分の試合の後、リングサイドから小林とファルコンの試合を観戦していたのだが、ファルコンのあまりの挑発的な態度に、業を煮やして再びリングに上がったのだった。

「俺が相手だ、こらぁ! 男をなめんじゃねえ!」

岡田はここ数年、チャンピオンである小林に挑戦し続け、自他ともにライバルと認めている存在だった。
常に正面からぶつかって、死闘を繰り広げている好敵手が、ピンクファルコンの卑怯な手口によって敗北しようとしているのが、許せなかったようだった。

「フンッ! いいよ。かかってきな!」

不意打ちによって膝をついたファルコンだったが、すぐに体勢を立て直し、岡田を手招きした。





「ファルコーン! そんな男、やっつけちゃえー!」

「アンタも金玉潰されるわよー! 男はみんな、同じなんだから」

客席の女性たちは、ファルコンの勝利を信じて疑わないようだった。
一方の男性客たちは逆に、チャンピオンのライバルである岡田の参戦に、大きな期待を寄せているようだった。

「いけー! 岡田―!」

「そんな女、ぶっ飛ばせー!」

「おおっ!」

岡田は気合と共に、ピンクファルコンに向かっていった。
両手を振りかぶって掴みかかろうとし、ファルコンもその両手を掴み、また手四つの状態になった。

「それっ!」

しかし、今度のファルコンは素早かった。
両手がふさがって、力比べになる前に、いきなり岡田の股間を蹴りにいったのである。

「おっと!」

しかし、岡田はこれを予期していたようで、素早く腰を引いてファルコンの蹴りをかわした。
思わずニヤリと、笑みがこぼれる。

「おおーっとー! ピンクファルコンの必殺の金的蹴りが、空振りしたー!」

岡田はそこで素早く両手を外すと、ファルコンの腰を掴んで、後方に反り返るようにして投げ落とした。

「スープレックスー! ファルコン、ピンチかー!?」

ドスン、という音がして、ピンクファルコンは後頭部からリングに叩きつけられた。
岡田は投げ終えた後も、鍛え抜かれた肉体で美しいブリッジの体勢を見せた。これが本当のプロレス技だと言いたかった。

「どうだ、こらぁ!」

まだ終わりではなかった。
岡田は素早く立ち上がると、さすがに脳震盪でも起こしたのか、起き上がろうとしないピンクファルコンの両足を掴んだ。

「いくぞー!」

観客席を挑発するように指をさす。
そして岡田は、一気にピンクファルコンの体を持ち上げ、回転し始めた。
プロレスの最も代表的な技の一つ、ジャイアントスイングだった。

「うおおっ!」

ピンクファルコンの長い黒髪が、糸を引くようにして回った。
相手の平衡感覚を失わせることが目的で、実際的なダメージは少ない技だったが、力のない者には決してできない。
岡田が男の力強さをアピールするためには、最高の技だった。

「おおらっ!」

何回転かの後、コーナーポストに向かって放り投げるようにして、岡田はピンクファルコンの両足を離した。

「うう…!」

投げ飛ばされたファルコンはぐったりと手を伸ばし、苦しそうな声を上げた。
岡田のジャイアントスイングがかなりの高速回転だったためか、頭に血がのぼってしまったようだった。

「見たか、こらぁ!」

岡田は、野生動物が威嚇するようにピンクファルコンに向かって吼えた。
そしてまだぐったりとしている彼女をまたいで、コーナーポストに向かい、ロープの二段目に両足をかけた。
あえてファルコンに背を向けて、観客席に向かってアピールする。
これから、バック転をしてボディプレスを仕掛けるつもりだった。

「おい! おい! おい! おい!」

岡田は自ら手を叩いて、リズムを取り始めた。
やがて観客席の男たちも、両手を叩いて手拍子をする。
それが最高潮に達したとき、ピンクファルコンに向かってダイブするつもりだった。
しかし。

ガシィッ!

いつの間にか立ち上がっていたピンクファルコンが、大きく股を開いてロープに立っていた岡田を、背後から不意打ちした。
もちろん、狙いは金的である。

「はうっ!!」

ピンクファルコンのかち上げを股間にくらった岡田は、目を見開いた。
そしてそのまま、力なくロープを滑り落ち、リングマットの上に大の字になってしまう。

「ピンクファルコン、ふっかーっつ! これは痛いぞ、岡田―!」

「うう…く…!!」

岡田は額に脂汗を流して、もがいていた。
すると、ピンクファルコンが素早くリングを降り、コーナーポストの向こう側に立った。
そしてそこにあった岡田の両足首を、しっかりと握る。

「おおっ! ファルコン、岡田の足を掴んだ! これはまさか…!」

「おっ! や、やめ…!」

岡田はファルコンの意図を敏感に察して、必死に首を横に振った。
しかしファルコンは、マスクの下でニヤリとほくそ笑んだ。

「そおれっ!」

ファルコンが岡田の両足を思い切り引っ張ると、当然のこととして、コーナーポストに岡田の股間が直撃することになる。

ゴォン!

と、鐘を突くような音がした。

「はぐうっ!!」

大の字に寝そべっていた岡田は、一瞬で起き上がった。
股間から湧き上がってくる激痛に顔を歪め、コーナーポストを抱くようにして痛みをこらえている。

「ファルコンの、鐘突きー! 今年最後の試合で、除夜の鐘を打ち鳴らしたー! これで岡田の煩悩も、粉砕されてしまったかー!」

男たちにとっては、寒気がするような鈍い音だったが、女性たちは爆笑していた。
中には岡田の情けない姿に、涙を流して笑っている者までいる。
ピンクファルコンは、女性たちの声援を浴びながら、再びリングに上がった。

「あらあら。痛かったみたいね」

両手でコーナーポストにしがみつき、奥歯を噛みしめながら痛みに耐えている岡田を見下ろしながら、仁王立ちしていた。

「金玉なんかぶら下げてるから、やられちゃうのよ。女が本気を出せば、男は絶対勝てないんだから。そこで、よおく見てなさい」

自らのすっきりとした股間を見せびらかすかのように、突き出して見せた。
そしてファルコンは、すでに立ち上がることもできなさそうな岡田を放っておいて、リングの中央付近でまだうずくまったままの小林の方へ歩み寄った。

「さあて。それじゃあ、とどめを刺してあげようかな?」

小林は、ピンクファルコンに岡田が敗れたことを悟り、苦しそうに顔を歪めながらも立ち上がろうとした。
股間には、さきほどファルコンに握りしめられた金玉の痛みが、まだジンジンと残っていたが、それでも常人よりはるかに痛みには強いといわれるプロレスラーである。
腹の中を掻き回すような痛みと不快感をおさえて、立ち上がった。

「フン。さすが、チャンピオンだね。そらっ!」

ファルコンは、両手でぐらつく膝をおさえながら、ようやく立っている状態の小林の顔面に、強烈な張り手を放った。

パチィン!

と、高い音がリングに響く。
続けて二発、三発と、ファルコンは張り手を打ち続けた。

パチィン! パチィン!

顔面をひどく打たれても、小林はそれを防ごうともしない。
こんな打撃は、彼にとっては肩を叩かれるのとそう変わらない、あいさつのようなものだった。
ピンクファルコンの方も、それは十分承知していて、ただ小林をいたぶっているだけのようだった。

「ほうらっ! さっきのお返し!」

するとファルコンは、小林の頭を抱えて、ヘッドロックの体勢になった。
しかしそれは女の細腕で、先程小林がかけたヘッドロックと比べれば、明らかに威力はなさそうだった。
それでもファルコンは、これを試合のクライマックスにしようと、片手を上げて観客にアピールした。

「ぐぅ…! この野郎ー!」

女性客たちの歓声が飛ぶ中、小林は最後の意地で、ピンクファルコンの腰に手をかけると、一気にその体を持ち上げた。

「くらえーっ!」

ヘッドロックをかけられたまま、ファルコンにバックドロップをかけようとしたのだ。

「キャーッ!」

「ファルコーン!」

高々と持ち上げられたファルコンを見て、ファンの女性たちは悲鳴を上げた。
しかし。

「おっと!」

ピンクファルコンは素早く手を放すと、流れるような身のこなしで小林の技をはずし、そのままくるりと回転して、着地した。

「えいっ!」

そして、小林の背後から、バシン! とその股間を蹴り上げた。

「はぐっ!!」

技をかけたと思ったら、いきなりまた金的蹴りをくらい、小林は目の前が真っ暗になるような衝撃を受けた。

「さあ、とどめ!」

そしてピンクファルコンは、後ろから小林の両脇に手を回し、渾身の力を込めて、その巨体を持ち上げた。

「んんーっ!」

「おっ! おっ!」

まさか小林も、100キロ近くある自分が持ち上げられるとは思っていなかった。
そしてその股間に、ピンクファルコンのピンク色のブーツが深々と入っているのが目に映った。

「おおーっと、これはー! ピンクファルコンの必殺技かー!?」

「いくよーっ! キーンッ!!」

ピンクファルコンが小林を降ろし、その股間を自分の膝に叩きつけた瞬間、観客席の女性たちからも、一斉に「キーン!」という声が飛んだ。
本来なら、相手の尾てい骨を攻撃するアトミックドロップという技だったが、ピンクファルコンは膝の角度と相手の位置を微妙にずらして、金玉を攻撃する技にアレンジしているのだった。

「ぐええっ!!」

結果、小林の金玉は自らの体重とファルコンの膝に押しつぶされ、潰れる寸前にまで圧迫されてしまうことになる。

「あ…か…!!」

ファルコンが手を放すと、小林は白目をむいたまま、リングに倒れ込んでしまった。

「決まったーっ! ピンクファルコンの、アトミック金ドローップ!! さすがの小林も、これは立てないかーっ!!」

リングアナが絶叫した直後、ゴングが鳴らされ、試合終了となった。

「よーっし!!」

ピンクファルコンは高々と手を挙げ、女性客たちから万雷の拍手が送られた。
その間も、リング上にいる岡田はまだコーナーポストを抱いて苦しみ続け、小林は白目をむいたまま、ピクリとも動かなかった。
そしてそれを見ている男性客たちは、あまりに衝撃的な結末に、まったく声を発することができなかった。

「みんな、今日はありがとー!」

リングアナからマイクを借りたピンクファルコンが、手を振った。

「みんな、見たでしょう? 男はね、いくら体を鍛えて、こんなにムキムキのマッチョになっても、絶対鍛えられない場所があるの。それはどこ?」

観客席に尋ねるように、マイクを向けた。

「金玉ー!」

女性客たちは、声をそろえて答えた。

「え? もう一回言って?」

「キンタマー!!」

そう言った女性たちは、嬉しそうに笑っていた。

「そう! その通り! 男はいくら頑張っても、金玉がある限り、女には勝てないってことだね! じゃあ、また! ありがとー!」

ピンクファルコンは最後に手を大きく振って、リングを飛び降りると、後も見ずに走り去っていった。
リング上に残された男たちが担架で運ばれていったのは、その数分後だった。



終わり。



試合が終わった後、観客たちが会場を出るときに、ちょっとしたトラブルがあった。
試合を見て、興奮してしまった男性客の数人が、一部の女性客たちに因縁をつけたのである。

「てめえ、なめんじゃねえぞ!」

「なによ! そっちが悪いんでしょ!」

きっかけは、肩がぶつかったとかぶつかっていないとか、些細なことだった。
しかし、あまりに衝撃的な試合の後だったので、両者とも興奮していたらしい。
一人の男が、女性の肩に手をかけたその瞬間、

「はうっ!!」

ピンクファルコンさながらの金的蹴りが、男性客を襲った。
そこからは、悲惨であった。
「男の弱点は金玉」と、ピンクファルコンの試合を見て刷り込まれてしまった女性たちは、男にすごまれても、びくともしなかった。
逆に次々と男たちの急所を蹴り上げ、あっという間にKOしてしまったのである。
中には、女性たちに取り囲まれて、何度も金玉を蹴られてしまう男もおり、運営側が仲裁に入った時には、すでに数人の男たちが、床に転がって呻いている状態だった。

「なんだ。男って、こんなに弱いんだね」

「金玉蹴れば、一発なんだ」

「男のくせに。情けなーい」

「私、女で良かったー」

周りで見ていた女性たちが囁く中、その場にいた他の男性客たちは、背中を丸めて、おどおどとした様子で帰っていった。






その高校はスポーツの盛んな校風で、さまざまな種目の部活動が存在していたが、中でも珍しいのは、女子のボクシング部だった。
部ができてまだ数年しかたっていなかったが、指導者に恵まれ、全国大会への出場も果たしていた。
かといってストイックになりすぎもせず、流行りのボクササイズの要素なども取り入れたおかげで、創部以来、新入部員の数も右肩上がりに増えている。
そんなときに困ったのが、部員たちの練習場所の確保だった。

ボクシング部の本来の練習場所は、校庭の隅に建てられたプレハブだったが、これは男子ボクシング部と共用しているため、スペースが限られている。
そこで、現在、男女の空手部が使っている武道場に、女子ボクシング部の練習場所を作ってもらおうとしたのだが…。

「そんなの、ダメだ。ここだって、大して広いわけじゃないんだから。試合をすることもあるし、邪魔になるだろ」

「だから、そういうときは外で練習したりするから。とりあえずって感じでいいじゃない」

「ダメなもんはダメだ!」

女子ボクシングの部長であるアサミは、男子空手部の部長、ダイゴに相談を持ちかけたのだが、即答でノーだった。
もともと、ダイゴはボクシングという競技にいい感情を持っていないし、まして女の子が格闘技をすることなど、片腹痛いと思っている。

「でも、空手部って少ないじゃない。こっちの半分もいないんだから、ちょっとくらい空けてくれてもいいと思うけど?」

アサミの言っていることは紛れもない事実だったが、実はそれこそがダイゴの逆鱗に触れる言葉だった。
長年、空手に打ち込んできて、空手こそが最強の格闘技だと信じている彼は、ボクシングのようなスポーツが幅をきかせている現状に、密かに腹を立てていたのだ。

「いいか、空手にはな、蹴りがあるんだよ。少ない人数でも、回し蹴りをしたり、飛び蹴りをしたりするから、広くないと危険なんだ。ボクシングみたいなお遊びと一緒にするな!」

「はあ? お遊びって何よ? どういうこと?」

アサミも、ボクシング部の部長をつとめるだけあって、決して大人しい方ではない。愛するボクシングをけなされて、語気が荒くなった。

「あんなの、お遊びのスポーツだろうが。手にグローブはめて、蹴りは禁止なんて、格闘技じゃないね。あんなことして、強くなった気でいるなんて、笑わせるぜ!」

「別に、強くなったなんて言ってないでしょ! ボクシングは洗練されたスポーツなのよ! それに、人を倒すのに蹴りなんていらないわよ。パンチだけで十分だと思うけど」

「ああ、そうかい。じゃあ、空手とボクシング、どっちが強いか試してみるか? もし俺たちが敗けたら、お前らの言うことを聞いてやってもいいぜ?」

「いいじゃない。望むところだわ!」

こうして、二人の言い争いは、練習場所の権利を賭けた、空手部とボクシング部の争いに発展してしまったのだった。




空手とボクシングという、まったく違う競技の対戦ということで、そのルールも変則的なものになった。

試合はボクシングのリング上で行う。
3対3の団体戦。
3分3ラウンド、途中に1分間のインターバル有り。
ボクシング部は相手を倒して10カウント取れば勝ち。
空手部は有効な攻撃を「一本」とし、三本取れば勝ち。
両者共にグローブとヘッドギアを着用。
顔面以外への蹴りを認める。
時間切れの場合は、引き分け。

審判役は公平を期すため、ボクシング部と空手部の双方から出されることになった。
しかも、当初はダイゴとアサミの言い争いから始まったものが、いつの間にか男子ボクシング部と女子空手部まで巻き込んでの、空手対ボクシングの全面対決の様相を呈してきた。
自然と、試合はダイゴ率いる男子空手部対アサミの女子ボクシング部に加えて、それだけでは男女の差が出てしまい、不公平ということで、女子空手部と男子ボクシングの試合も行われることになってしまったのだった。

「女の子でも男子に勝てるってことを示さないと、空手の強さの証明にはならないでしょ。面白そうじゃない」

女子空手部部長のミオは、実はダイゴ以上にケンカっぱやい性格かもしれなかった。

「まあ、練習場が増えるのは、俺らもうれしいけどな」

男子ボクシング部の部長のナオキは、日増しに増えていく女子ボクシング部の部員たちを実は疎ましく思っており、女の子たちがボクシング部の部室から出て行くことには、大賛成だった。
この二人は、男子空手部と女子ボクシングの審判も務める。
双方が双方とも、自分たちの勝利を信じて疑っていないようだった。

「じゃあ、第一試合、空手部はコウイチと、ボクシング部はユウナ。リングに上がって。試合を始めます」

審判役のミオに呼ばれた二人は、返事をしてリングに上がった。
各々の部活を背負った最初の試合とあって、その顔は緊張感に満ちていた。

「コウイチ! しっかりやれ!」

「ユウナ! 落ち着いて!」

リングの周りは、空手部とボクシング部の部員で取り囲まれていた。
やがてゴングが鳴り、試合が始まった。

「はっ!」

空手部のコウイチは、いつもの試合の時のように気合を入れて構えをとった。
空手部員たちにとっては、ボクシングのリングに上がることは初めての経験で、グローブをはめたこともなく、まったく未知の領域だった。
いつもの落ち着きを取り戻すため、コウイチは慎重にならざるを得なかった。
一方のユウナは、いつも練習しているリングで、男子を相手にすることも初めてではなかったから、比較的落ち着いて試合に臨むことができた。

「やあっ!」

コウイチが繰り出した正拳突きが、空を切った。
二人の構えは対照的で、ユウナはボクシングらしく、リズミカルなフットワークを踏みながら、リング上を丸く動いていた。
それに比べて、コウイチは前後に大きく足を開き、重心を前後に動かしてリズムを取っている。

「えいっ! はっ!」

コウイチが続けざまに出した拳は、次々と空振りしてしまう。
それもそのはずで、空手の試合では、相手がこれほど大きく横に動くことはない。しかも慣れないグローブをしているから、普段の突きのスピードは半減している。
ユウナが小さく頭を振りながら、左右にめまぐるしく動くと、コウイチの目では追えなくなってしまった。

「ユウナ、いいよ! その調子!」

ユウナは小柄だが、女子ボクシング部の中でも素早い方で、アウトボクシングを得意としていた。
コウイチの正拳突きは威力はありそうだったが単発で、ボクシングのコンビネーションのように連続することはなさそうだった。
だから、しばらくしてタイミングを掴むと、ユウナはコウイチの攻撃の隙を狙うことにした。

「シッ!」

コウイチが突きを空振りした後、手を引くと同時に踏み込んで、ボディに数発、パンチを入れていく。
コウイチは最初、「うっ」と息を詰まらせる程度だったが、やがてダメージが蓄積してくると、呼吸が荒くなってきた。

「くそっ!」

焦るほど、コウイチの攻撃は大振りになり、隙が大きくなった。
コウイチよりだいぶ身長の低いユウナが、頭を下げながら踏み込んでくると、コウイチの目には捉えられなくなってしまったのだ。

「ユウナ、その調子! 効いてるよ!」

「コウイチ! 落ち着けって!」

一見してユウナが優勢に見えたが、彼女にとっても神経を削られる作業だった。
空手をやっている男子の攻撃を一発でもまともにくらえば、危ない。
だからユウナは慎重に、両手でガードを固めながら、コウイチの懐に踏み込んでいく。
あまりに体を低くしすぎたため、コウイチの空手着の帯の下まで、パンチが当たることがあった。

「うっ! ……ちょっと…!」

突然、コウイチが手を挙げて、審判にアピールした。

「待て!」

ミオが試合を止めると、コウイチはユウナに背を向けて、リングのロープに寄り掛かって、足踏みを始めた。

「コウイチ、どうしたの?」

思わずミオが尋ねたが、コウイチは苦しそうな顔をして、何も答えなかった。

「ローブローか。ユウナ、気を付けろ」

同じく審判役としてリング上にいたボクシング部のナオキが、状況を察した。

「え? ローブローって…。ああ、金的に入ったの? へー。ボクシングでも、そういうことあるんだ」

空手しかやったことのないミオは、コウイチの心配よりも、素直に驚いていた。
一方のユウナは、普段は女の子としか試合をしたことがなかったので、そんな反則があったことをすっかり忘れているようだった。

「あ、そうか。あんまり低くしすぎちゃった。すいません」

ペコリと頭を下げたが、それでコウイチの痛みがおさまるわけではない。
ユウナのパンチはコウイチの最大の急所、金玉を直撃したものではなかったが、ボクシングのグローブは、直接当たらなくても衝撃が響くようにできている。
当たった瞬間、本人も気がつかなかったが、すでにじんわりとした痛みが下半身全体に広がっていた。

カァン!!

と、ここで1ラウンド終了のゴングが鳴った。
コウイチにとっては幸いだった。
1分間のインターバルを取るために、二人はコーナーに下がった。

「コウイチ、大丈夫か?」

「ああ…。まあ…」

コウイチの痛みは、少しずつ治まっていた。
この分なら、次のラウンドには影響はなさそうだった。
一方のユウナは、セコンドについた部長のアサミと話していた。

「ローブロー取られちゃった。でも、判定はないんだよね。まあ、いいか」

「そうそう。KOじゃなければ、引き分けってことにしてあるからね。…でもユウナ。ってことはさ…」

アサミは何か考えついたように耳打ちをして、ユウナもそれにうなずいていた。
やがて、2ラウンド開始のゴングが鳴った。

カァン!!

コウイチとユウナは、再び対峙した。
コウイチのダメージはおおよそ回復したようで、最初と同じように、腰を低く落として、空手の構えを取った。
なかなか攻撃が当たらなくても、一撃必殺を狙うのが、空手部として貫くやり方だと思っているようだった。
対するユウナの作戦も変わらず、ヒット&アウェイでダメージを積み重ねるつもりだった。

「えいっ!」

コウイチの攻撃をギリギリでかわし、踏み込んでボディを打つ。
しかし女の子のパンチでは、なかなか大きなダメージは与えられない。
コウイチもパンチがくると分かっていれば、腹筋に力を込めて、耐えることができるのだ。
周囲の目にも、試合が長引くかと思われたその時、

「うぐっ!!」

コウイチが突然、前かがみになり、リングに膝をついてしまった。
ユウナが何度目かのボディ攻撃をした直後だった。

「ダウン! …いや、ローブローか…?」

一旦はダウンを宣言し、間に入ったナオキだったが、コウイチの苦しみ様を見て、それを撤回した。
確かにコウイチは、前かがみになって、グローブを付けた手で、下腹部のあたりをおさえている。
先程よりも強い衝撃を股間に受けたようだった。

「ユウナ、ローブローだぞ。気を付けろ!」

「はあい。すいません」

ユウナは悪びれもせず、またペコリと頭を下げた。

「ちょっと、大丈夫?」

女子空手部のミオが心配するほど、コウイチは苦しんでいた。
彼女も、男子が練習中に股間に当ててしまい、苦しんでいるところを見たことはあったが、それと比べても、そのダメージは深刻そうだった。
たまらず、セコンドについていた部長のダイゴが叫んだ。

「おい、気を付けろよ! 反則じゃないか!」

「ゴメンゴメン。でも、しょうがないでしょ。これだけ身長が違うんだから、低い所に当たっちゃうんだって」

ボクシング部のアサミは、まるで用意していたかのような返事をする。

「それに、いつもは女子同士でやってるからさ、ローブローとか気にしてないんだよね。男子が相手だと、気を付けないといけないよね、ゴメンゴメン」

ダイゴだけでなく、ボクシング部の男子たちに対しても、この言葉は挑発的だった。
まるで、女子が手加減してあげているような、そんな印象を受けてしまう。
その間も、コウイチは股間の痛みと闘っていたが、やがてゆっくりと立ち上がった。

「コウイチ! 大丈夫か!」

「…なんとか…」

ヘッドギアの下で、汗をびっしょりかいていた。
コウイチとしても、このまま終わることなどできなかった。

「大丈夫ね? じゃあ、始め!」

ミオが試合を再開したが、コウイチの動きは、目に見えて鈍くなってしまっていた。

「くっ…!」

動くと下半身が痛むので、もはや軽いフットワークなど期待できず、このままではユウナに打たれっぱなしになることは明らかだった。
そこでコウイチは、賭けに出ることにした。
今までは体勢を崩す恐れがあるため、控えていた蹴り技を中心に攻めることにした。
リーチの長い蹴りなら、アウトボクシングに徹しているユウナにも当たる可能性がある。
リスクはあるが、コウイチにはもうそれしか思いつかなかった。

「やあっ!」

渾身の気合を込めて繰り出される蹴りは、それなりに強烈で、風を切っているのがユウナにも分かった。
しかし、それ以上に隙も大きいと、ユウナは一瞬で見抜いた。

「おりゃっ!」

コウイチが回し蹴りを出し、それをかわした瞬間、大きく踏みこんで、アッパーカットを放った。
そのパンチは、リングすれすれから上昇気流のように舞い上がって、がら空きになっていたコウイチの股間の中心部に打ちつけられた。

ボスン!

と、グローブが空手着に当たる音がした。
と同時に、コウイチの背中に、冷たい空気のようなものが通り抜けたような気がした。

「ぎゃあっ!!」

回し蹴りを放ったままのコウイチは、その場から飛び上がるようにしてのけぞった後、倒れてしまった。
ドスン、とコウイチの体がリングに落ちる音が響いた。

「うあっ!! ああ…!!」

グローブを付けた不自由な手で股間をおさえながら、リング上を転げまわっている。
そのあまりの痛がりように、審判の二人もしばらく声が出なかったが、やがてコウイチが動かなくなると、セコンドのダイゴがリングに上がって声をかけた。

「おい! 大丈夫か?」

ダイゴの呼びかけにも、コウイチはまったく反応できなかった。
股間から湧き上がる地獄のような痛みに体を震わせ、ギュッと目をつむりながら耐えているようだった。

「あー、またやっちゃった。ゴメンゴメン」

「ふざけんなよ! 反則負けだ! お前らの反則負け!」

ダイゴは声を荒げた。
しかし、ユウナとそのセコンドにいるアサミは、別に驚いた様子もなく、この状況を予期していたかのように冷静だった。

「えー、反則負け? そんなの、ルールにあったっけ?」

「うーん。確か、なかったよね。ていうかさ、そもそもローブローって反則なんだっけ?」

「な…! 反則に決まってんだろ! 急所じゃねえか! こんなんじゃ、もう試合できないだろ!」

確かに、ダイゴの足元でうずくまっているコウイチは、とても立ち上がることなどできそうになかった。

「ふーん。そうみたいだね。じゃあ、ローブローは反則ってことでもいいけどさ。でも、なんかアレだね。ガッカリだなあ」

「なに?」

ダイゴは、自分と金玉の痛みに苦しんでいるコウイチを見下したように笑っているアサミの態度に、怒りを感じた。

「だって、空手やってる男子って、もっと強いのかと思ったけど。他の男子とおんなじで、アソコをやられると、どうしようもなくなっちゃうんだね。なんか、ガッカリだなあって」

クスクスと笑いながら、アサミはそう言った。
ダイゴがよく見ると、リングの周りにいる男子の空手部員やボクシング部員たちは、一様に気の毒そうな顔をしているが、女子ボクシング部員たちは、皆、転げまわって痛がっていたコウイチの姿を見て、笑っているようだった。
女子の空手部員にとっては、ある程度見慣れた光景でも、女子ボクシング部員たちにとっては、あれだけ気合を入れていたコウイチが、ユウナのパンチ一発であっけなく倒れてしまったことが、おかしくてしょうがないらしかった。

「すっごい痛がってたね。アレ、ヤバくない?」

「ホントに痛いんだあ。でも、あんなにゴロゴロしなくてもよくない?」

「ウケるよね」

それまで気にならなかった女の子たちの囁きが、ダイゴとコウイチの耳にも聞き取れるようになってきた。

「ゴメンね。アタシ、そんなにパンチ力はないと思うんだけど、そこに当たると、やっぱりダメなんだね。当てないように気を付ければよかった。ごめんなさい。痛いよね?」

ユウナが、うずくまるコウイチの側に寄ってきて、声をかけた。
しかしその言い方は、どことなく上から目線というか、手加減を間違えたような印象だった。

「そうだよね。ユウナはKOよりも判定狙うタイプだから、大丈夫だと思ったけど。一発KOしちゃったね。やっぱり、男の最大の急所だもんね。いつも女子同士でやってるから、分かんないのもしょうがないよ」

アサミも次々と、男のプライドを刺激するようなことを言う。
ダイゴは何も言えず、悔しそうにうつむいていたが、やがて、苦しみながらも同じように悔しそうな顔をしているコウイチの顔を見て、決断した。

「…引き分けでいいよ。反則負けとか、決めてなかったから。しょうがない」

「えー、ホント? ありがとう」

「良かったあ。ゴメンね、痛い思いさせちゃって。今度やるときは、当てないようにするから。また、頑張ろうね。お疲れ様!」

ユウナは喜んでリングを降りた。
一応は引き分けということで形はついたものの、リング上でうずくまって、いまだに動けないでいるコウイチを見れば、一体どちらが勝者なのか、誰の目にも明らかだった。




「じゃあ、第二試合は、マサヤとモモカ。リングに上がって」

空手部の男子が3人がかりでコウイチをリングから降ろした後、第二試合が開始される。
先にリングに上がったのは、空手部のマサヤだった。
マサヤは、コウイチと比べれば小柄だったが、スピードを生かした攻撃が得意だった。第一試合を見て、女子ボクシング部を相手にするには、とにかく足を動かしていくしかないと考えていた。

「よおし! 頑張ろっと!」

モモカはリングに上がると、気合を入れるように肩をグルグルと回した。
彼女の特徴を一つ上げるとするなら、その胸だったろう。
高校生ながら、巨乳と言って差支えないほどのバストが、体を動かすたびにブルンブルンと揺れている。

「……」

試合の直前だったが、マサヤが思わず注目してしまうほどの刺激的な光景だった。
普段は制服を着ているが、それでもモモカの胸が大きいことは皆が知っていた。
しかし、タンクトップ一枚になった姿が、これほどとは。
マサヤだけでなく、セコンドについていたダイゴまで、思わずつばを飲み込んでしまった。

「あのさあ。一つ提案なんだけど」

「え? な、なんだよ?」

あちら側のセコンドにいたアサミが、突然話しかけてきた。

「なんなら、空手部の方はグローブを外してもいいよ。慣れないもの着けて、大変そうに見えたからさ」

「え? ホントかよ?」

第一試合のコウイチの様子を見れば、空手部にとってグローブ着用は大きなハンデといえたので、この提案は彼らにとって願ってもなかった。

「うん。まあ、顔面だけ避けてもらえればさ。ヘッドギアは着けてるけど、さすがに危ないからね」

「分かった。そうしようぜ」

普段の空手部の試合でも、素手で顔面を攻撃することはほとんどない。
まして、女の子の顔を直接殴るつもりなど、彼らにも最初からなかったので、ダイゴはこの条件を受け入れることにした。
リング上にいたマサヤはすぐにグローブを外して、スッキリしたように拳を何度も握りしめた。

「じゃあ、そういうことでいいのね? 第二試合、始め!」

カァン!

第二試合のゴングが鳴った。
重たいグローブさえ外せば、空手の本来の突きのスピードが出せる。
マサヤは空手部でも一番の素早さを持っているから、今度こそ負けようがない。
ダイゴもマサヤ本人も、そう思っていた。

「やあっ! ……っ!」

しかし、モモカと対峙したマサヤは、改めて気がついた。
自分は一体、相手のどこを攻撃すればいいのだろう。

(顔面は、殴れない…。じゃあ、胸を…殴るのか…? この手で…?)

マサヤは、スポーツや武道に打ち込んでいる男子がしばしばそうであるように、女の子に対してかなりウブな方だった。
今まで彼女を作ったことはないし、もちろん女の子の胸を触ったことなどない。
試合とはいえ、グローブを外したこの手で、モモカの大きすぎるオッパイを触っていいものかと、真剣に悩んでしまっていた。

「モモカ! 落ち着いてね!」

すべてはアサミの作戦通りだった。
普段の練習の時から、ボクシング部の男子たちが、モモカの胸を殴りにくそうにしているのを知っていたのだ。
グローブを着けていてもそうなのだから、素手で殴れるはずはないと確信していたのだ。

「シッ! シッ!」

動きやすさのためとはいえ、こんな胸をしてタンクトップを着ているくらいだから、モモカは自分のバストのことには無頓着な方だった。
男子たちが、なぜ自分の胸を殴らないのかと考えたこともない。
だからマサヤの葛藤など知る由もなく、攻撃してこない相手に向かって、練習通りの堅実な左ジャブを繰り出していた。

「んっ! はっ!」

マサヤはそのジャブをフットワークを使ってかわしてはいたものの、パンチの度に大きく揺れるモモカのバストに目が行くようになった。
モモカのグローブの動きよりも、大きなプリンのように波打つ乳房の動きが気になり、やがて灰色のタンクトップが汗で滲んでくると、乳首の形が浮き出てくるような気がして、もう目が離せなくなってしまった。

「…うっ!! く…」

徐々に、モモカのジャブがマサヤの顔面をとらえ始めた。
分かってはいても、目が離せない。かといって、そこを手で殴るわけにもいかない。
マサヤにとっては、天国なのか地獄なのか、よく分からないジレンマに陥っているようだった。

「マサヤ! 手を出せ! パンチをよく見ろ!」

ダイゴの指示も、耳に届かなくなっていた。
もし届いたとしても、それは無理な注文というものだったのだが。
手を出せないマサヤは、いつの間にかコーナーに追い詰められてしまった。

「くっ!!」

圧倒的不利な状況になり、さすがにマサヤは我に返った。
殴ることができないなら、モモカの脚を蹴ろうと思ったが、すでにモモカはマサヤの目の前に迫っており、蹴りを出すような隙間がない。
なんとかコーナーを脱出しなければ、マサヤに勝ち目はなかった。

「シッ、シッ! …エイッ!!」

しかしモモカも、マサヤをコーナーから出すまいと懸命だった。
ジャブの連続から、力を込めた右ストレートを顔面に放った。
マサヤはそれを逆にチャンスと思い、モモカのパンチをかわして、彼女の左側に抜け出そうとした。しかしモモカも、体でそれを防ごうとする。
二人の体がもつれ、交錯した。

「んっ! くっ…!」

押し合いの力比べになれば、男のマサヤがモモカに負けるはずはなかったが、問題はやはり、モモカの胸だった。
二人の体が狭いコーナーで重なり合い、モモカの胸がマサヤの胸に押し付けられると、行き場を失った二つの巨大な乳房が、マサヤのあごの下あたりまでせりあがってきた。

「あっ…!!」

初めて味わう女の子のオッパイの感触に、マサヤはむしろ愕然とした。
世の中に、これ以上の柔らかさを持ったものがあるだろうかと思った。しかも大きなマシュマロのようなそれは、柔らかいだけでなく、押せば返ってくるほどの弾力も兼ね備えている。
まったく、モモカの巨乳は、男にとっては一瞬で理性を忘れさせるほどの凶器のようなものだった。

「待て! ブレイクって言うんだっけ?」

二人が抱き合うように重なり合ってから数秒後、空手部のミオが指示を出した。
ボクシングでは、こういう場合にブレイクを宣言するが、空手の試合でも似たようなことはある。
審判役の二人が、マサヤとモモカを引き離したが、マサヤの顔はどことなくうつろだった。

「始め!」

ミオが開始を宣言しても、マサヤの表情に緊張感は戻らない。
つい今しがたまで、自分の体に密着していたモモカの胸が、また波打つように揺れながら近づいてきた。

「えいっ!」

棒立ちだったマサヤの顔面に、モモカのジャブとストレート、いわゆるワンツーが決まった。
この試合で初めてといっていい、クリーンヒットだった。

「うっ…!」

女の子とはいえ、それは紛れもないボクサーのパンチだった。
衝撃で、マサヤは我に返ったものの、足がふらついた。

「しっかりしろ! マサヤ!」

そのままモモカが一気に攻め立てるかと思った瞬間、第1ラウンド終了のゴングが鳴った。

「あーあ。終わりかあ」

自分でもチャンスだと感じていたのか、モモカは残念そうな顔をして、自分のコーナーに下がっていった。
一方のマサヤは、ゴングに救われた形になった。
コーナーに帰って椅子に座ると、がっくりと肩を落とした。

「おい、大丈夫か? 相手をよく見ろよ。いくら女のパンチでも、まともにもらったらヤバいぞ」

「…分かってるよ」

ダイゴにそう言われても、気のない返事しかできなかった。
相手をよく見てたりしたら、また先程の柔らかい胸の感触がよみがえってきそうで、落ち着かなかったのだ。
一方、モモカは、椅子に座りながらも余裕だった。

「なんか、全然攻撃してこないね。なんでだろ。でも、キックは怖いから、気を付けないとね」

モモカは、自分の規格外のバストが、マサヤの理性を奪っていることに気がついていなかった。
同じ女の子のアサミから見ても、モモカは鈍感で、こんな悩ましい体をしているくせに、小学生のような純粋な心を持っていた。
アサミとしては、そんな彼女をうまく操って、マサヤの冷静さを失わせるのが一番だと思っていた。

「うん、まあ、作戦通りって感じだけどね。…ねえ、次のラウンドではさ、ちょっと作戦を変えてみようか?」

「え? うん。いいけど」

アサミは、男を陥れる軍師として、モモカに策を授けた。
やがて、第2ラウンド開始のゴングが鳴った。

カァン!

「よしっ!」

煩悩を振り払うかのように頭を振りながら、マサヤは椅子から立ち上がった。

「始め!」

ミオの合図と同時か、それよりも早いくらいだったかもしれない。
モモカは、ゴングとほとんど同時に、対角線上のコーナーにいるマサヤに突っ込んでいった。

「えっ!」

反射的に両手を胸まで挙げて、ガードを固めることしかできなかった。
モモカは一気に間合いを詰めて、マサヤのガードの上から、あるいはその隙間からボディを打ちまくってきた。
しかもパンチを打ちながら、グイグイと体を押し付けてくるから、二人の間にはほとんど隙間がなく、マサヤの唯一のアドバンテージである蹴りが出せない。

「くっ! …あっ!」

ガードを固めるマサヤの両手に、モモカの乳房が押し付けられていた。
マサヤはまたしても、理性と本能のせめぎ合いに苦しむこととなる。

「マサヤ! コーナーから出ろ!」

ダイゴにそう指示されても、マサヤは自分から動くことができない。
動けば、さらにモモカと体を密着させることになるからだ。

「く…そ…!」

マサヤが、懸命に横に動いて、コーナーから出ようと足を広げたそのとき、

ゴスッ!

と、モモカの膝がマサヤの股間に炸裂した。

「あうっ!!」

マサヤの体から一瞬にして力が抜けて、その場に倒れるようにして膝をついてしまった。
股間に火のついたような痛みが湧き上がってきて、それはすぐにマサヤの全身のすみずみにまで広がっていった。

「ぐぅう…!」

悲惨な状況になってしまった。
女の子の目の前だとか、男の意地だとかいうものも、この痛みの前には何の意味もなさなかった。
この痛みから解放されるなら、他のどんな痛みでも今すぐ受け入れたくなるような、そんな思いだった。

「マサヤ!」

ダイゴはすぐにリング上に上がり、うずくまるマサヤの背中をさすってやった。
そんなことでおさまる痛みではないことは、百も承知だったのだが。

「おい! 今のは、お前…! わざと蹴っただろ!」

「あ…え…? でも、アサミちゃんが、蹴ってもいいよっていうから…?」

モモカは不思議そうな顔で、リングサイドにいるアサミを振り返った。
見ると、アサミは「しまった」というような顔で、頭を掻いている。

「本当かよ、アサミ!」

ダイゴが、リングロープ越しにアサミに問いただした。
アサミは少しの間、頭を掻いて何か考えるような素振りだったが、やがて開き直ったようにしゃべり始めた。

「そうそう。蹴ってもいいっていうか、まあ、蹴るのもありなんじゃないって言ったよ。言いました。はいはい」

アサミの誤算は、モモカのひたすらな純真さだったろう。
さきほどのユウナのように、それと分からないように、偶然を装って男子の股間を蹴り上げてくれるのを期待していたのだが、モモカにはそんな手の込んだことはできるはずはなかったと、反省する思いだった。
しかし、結果は同じことで、堅い膝小僧で股間を蹴り上げられてしまったマサヤは、哀れにも男の最大の苦しみに喘いでいるのである。

「ふざけんなよ! 今度こそ、反則だ!」

ダイゴが怒るのも、無理はなかった。
しかし、

「まー、そうだねー。…ていうかさ、ちょっと弱すぎるんじゃないの?」

「なに?」

「なんかさあ。試合する前は、空手はボクシングより強いとか、最強の格闘技だ、みたいなこと言っといてさ。アソコ蹴られたら、やっぱりダメでしたって、それはちょっと情けなさ過ぎるんじゃないかなあ?」

「そ、それは…」

「こっちはせっかくさあ、グローブも外して、蹴りもありでいいよって言ってるのに。それって、空手の方が超有利な感じじゃない? しかもこっちは、女の子なんだよ。それなのに、アソコを狙われたら勝てません。反則だって。空手ってそんなもんなの? なんか、恥ずかしくないのかな? 男として」

「う…」

ダイゴは思わず、口ごもってしまった。
確かに、色々と想定外のことはあったにせよ、自分たちにとって特別不利な状況だったというわけではない。
一般的なルールで言えば、金的は確かに反則だが、相手は自分たちよりも一回り小さい女の子たちなのである。
力のない女性が、金的という急所を狙うことは、武道としての空手の思想からいえば、何らおかしくないことである。
アサミの言うことも最もだという思いと、男の象徴である金玉を狙われるという悔しさが、ダイゴや空手部の男子たちの心の中で、相反する思いとして葛藤していた。

「アサミの言うとおりね。アンタたち、油断しすぎなのよ。女の子だからって、ちょっと甘く見すぎなんじゃないの?」

意外にも、味方だと思っていた女子空手部の部長、ミオが、刺すような視線をダイゴと、まだうずくまったままのマサヤに注いでいた。

「反則だなんだって、ぎゃあぎゃあ騒いで。みっともない! 男だったら、反則されたって、はね返すくらいのことしなさいよね!」

リングの周りにいる女子空手部の女の子たちからも、「そうだそうだ」という声が上がりそうな空気だった。
どうやら彼女たちは、空手部の男子たちがボクシング部の女子たちにあっけなくKOされてしまったことで、空手そのものがボクシングより弱いと思われてしまったと感じているらしい。
「自分たちだったら絶対、あんなパンチでダウンしたりしない」
と、そう言いたそうだった。
もちろん彼女たちの股間には、男子がダウンする原因となった金玉など、ついていなかったのだが。

「空手にだって、金的蹴りはあるんだから。反則とは言えないでしょ。アンタたちは普段、さぼってるかもしれないけどさ。女子はちゃんと、金的蹴りの稽古もしてるんだからね。全然反則じゃないよ。これからは、金的もありにしよう」

「そうだね。そういうことなら、ローブローとかはとらずに、ありにしようか。それで困るのは、男子の方だけなんだもん。そんなの、不公平だよ」

ミオの提案に、アサミもうなずき、思わぬ形で連携が成立してしまった。
ボクシング部の女子はもちろん、空手部の女子たちも、大きくうなずいており、ためらっているのは、空手部もボクシング部も、男たちだけになってしまった。

「うーん…。まあ、そういうことなら…」

男子ボクシング部のナオキは、探るような目でダイゴを見た。
こうなってしまっては、ダイゴもしぶしぶ、うなずくしかない。

「分かった…。金的もありでいいよ。この試合は、ウチの負けだ」

「やったあ! 勝ったあ!」

この決定に一番喜んだのは、無邪気なモモカだった。
彼女はここまでの話の流れを、すべて理解したわけではなかったが、とにかく自分が勝利したということが嬉しかったらしい。

「じゃあ、女子ボクシング部の一勝一分けってことね。最後の試合で勝たないとね、ダイゴ!」

ミオは励ましているつもりなのか、ダイゴの肩を強く叩いたが、ダイゴは苦虫を噛み潰したような顔をして、その呼びかけには応えなかった。




「それじゃあ、第三試合。ダイゴとアサミ。リングに上がって」

モモカの膝で睾丸を蹴り上げられたマサヤは、リングを降ろしてもらった後も、回復する気配は見えなかった。
第一試合で股間にパンチをくらったコウイチでさえ、まだ部屋の隅で、正座のような姿勢をしたまま、時折股間を撫でているような状態なのである。
金玉を蹴った側の女の子たちは、試合が終わればすぐに忘れてしまうほどの出来事だったが、蹴られた男の子たちは、少なくともあと数時間は股間に痛みを感じ続け、この後数日間はこの痛みを思い出して、背筋を寒くすることだろう。
男だけが持つ急所に対する絶対的な感覚の違いが、そこには存在しているようだった。

「アサミ! 頑張って!」

「ダイゴ! 負けるなよ!」

リングに上がった二人は、対照的な表情をしていた。
楽しそうな顔で、意気揚々とシャドーボクシングをし続けるアサミに対して、金的を蹴られた男子を二人も目の当たりにして、自分もそうなるかと想像せざるを得ないダイゴは、緊張しきった様子だった。

「さあて。空手の強さを、見せてもらおうかなあ」

目の前で、アサミはそんな挑発的な言葉を吐いてみせた。
ダイゴはそれを聞いて、さらに表情を険しくしたが、ふと見ると、アサミはさっきまで着ていたTシャツを、いつの間にか脱いでいた。
それは女子ボクシングの試合用のコスチュームのようなものらしく、大きくお腹を出したタンクトップと、ピチピチのスパッツ姿で、ダイゴの目から見れば、ビキニの水着に等しいほどのものだった。

「よおし。やるぞぉ!」

気合と共にアサミが激しくパンチを繰り出すと、モモカほどではないにしろ、十分大きいと言っていい彼女の胸が、プルプルと揺れた。
それは思春期のダイゴの目を釘づけにするには十分なもので、さらにキュッとくびれたウエストや、その下にある緩やかなカーブを描くヒップラインが、男の欲情を誘った。
リングサイドから見ているだけでは分からなかったが、マサヤはこんな刺激的な光景を見ながら試合をしていたのかと、ダイゴは思わず唾を呑みこんだ。

「…いっちに、さーんし…」

さらに、そんなダイゴの心境を知ってか知らずか、アサミは自分のコーナーで柔軟体操を始めた。
前屈をするたびに、彼女の胸の谷間は強調され、くるりと後ろを向けば、ヒップラインが下がりきった股間のあたりに、なだらかな膨らみを確認することができた。
ダイゴは試合に集中しようと頭では分かっていたが、決して目を離すことはできなかった。

「じゃあ、試合開始するよ? 始め!」

カァン!

試合開始のゴングが鳴った。
これまでの試合と同じように、ボクシング部のアサミは軽いステップを踏みながらリング上を動くのに対し、空手部のダイゴは、わずかに重心を移動させながら、どっしりとかまえている。
ダイゴは試合のルール通り、アサミから三本取ることを狙っているのではなく、重たい一撃で試合を続行不可能にしてやるつもりだった。

「やあっ! せいっ!」

しかし、間合いが遠い。
ダイゴの前蹴りや回し蹴りは、ことごとく空を切った。
アサミは警戒しているのか、ダイゴの脚が届く範囲には、簡単に入ってこようとしなかった。
しかしダイゴが大振りな蹴りを出すたびに、一歩踏み込んで、低い位置からパンチを出そうとする仕草をとった。
それは、第一試合でユウナがコウイチに放った、股間へのアッパーカットを髣髴とさせるもので、ダイゴの背筋に寒気を起こさせるには、十分すぎる効果があった。

「くっ!」

徐々に、ダイゴの蹴りは高い位置への回し蹴りから、低いローキックへと変わっていった。
隙を作れば、股間へ攻撃されるという恐怖からのことである。
一撃必殺を狙っているのは、どちらか分からなくなってしまう試合展開だった。

「うおっ!!」

ダイゴが思わず声を上げて腰を引いたのは、一瞬の隙をついて、アサミが攻撃を仕掛けてきたからである。
試合が膠着したところで、相手の呼吸の虚を突いた素早い飛び込みは、実はアサミの得意技だった。
当たらないと分かっている、まったく気持ちのこもっていないローキック。そんな攻撃が、一番危ない。
ダイゴが不用意に繰り出した蹴り足が、リングに着くかどうかのタイミングで、アサミは思い切って頭を低くして踏み込み、超低空のアッパーカットを放ってきたのだ。

ブンッ!

と、風を切る音が響いた。
アサミがダイゴの股間を狙ったのかは定かではなかったが、少なくともダイゴはそう感じた。
冷や汗をかく思いで、今度はダイゴの方から大きく距離を取らざるを得なくなった。

「どうした? 打ち合って!」

審判役のナオキが促しても、両者は容易に近づこうとしなかった。
アサミのそれは、軽やかにステップを踏み、相手の隙を突こうとする作戦だということが明らかだったが、ダイゴの場合は違っていた。
金的攻撃を恐れるあまり、自分でも無意識のうちに腰を引いてしまっており、空手のかまえとしては、ひどく不格好なものなってしまっている。
その様子をみていたリングサイドの女子ボクシング部員たちからは、思わず失笑が漏れた。

「ちょっと、ビビりすぎじゃない? すっごい腰引けてるよね?」

「カッコ悪…。やっぱり怖いのかな。…キンタマ?」

「ちょっ…。キンタマとか、言わないでよ。…男の急所でしょ」

静まりかえったリング上に比べて、リングサイドにはクスクスと笑い声が聞こえていた。
それはもちろん、リング上の二人にも聞こえたし、何より同じリングサイドで応援している男子空手部員たちにとっては、聞こえないふりをしたいくらい、恥ずかしいことだった。
そしてそれは、女子空手部員たちにとっても同様だったようである。

「ダイゴ! ビビってないで、前に出なさいよ!」

「金的くらい、気合で何とかしなさいよ! 男でしょ!」

女子の空手部員たちにとっては、空手がボクシングに劣っていると思われるのが嫌だったようだ。
同じ男子の空手部員には、決して軽はずみにはいえないようなことを、平然と言ってのけた。

「くっそ…!」

あちらこちらから、勝手なことを言われているのが、ダイゴの耳にも否応なく入ってきた。
対するアサミを見れば、それらすべてが、自分の計算通りだと言わんばかりに、余裕のある表情を浮かべている。
ダイゴはつぶやきながら、覚悟を決めた。

「うおーっ!」

心持ち左手を下げ、下腹部をカバーしながら、体当たりするようにしてアサミに突っ込んでいった。

「あっ!」

ほとんど破れかぶれと言ってもいい、ダイゴの戦法だったが、距離を取り、ヒット&アウェイの戦法を得意とするアサミに対しては、案外と有効だった。
180センチはあるダイゴの巨体が突っ込んできたことに、アサミはさすがに狼狽し、あっという間にロープに追い詰められてしまった。
二人の間の距離はほとんどなくなり、肩で押し合うような体勢になる。
この状態から威力のある攻撃を出すのは、二人とも難しそうだった。
さらにダイゴは、しっかりと半身になって、アサミの金的攻撃を警戒しているようだった。

「くっ…!」

「せいっ! やっ!」

体で押し合うと、やはり大きいダイゴの方が圧倒的に有利だった。
ほんの少し、空いた隙間で、ダイゴはアサミの腹にパンチを当てたり、膝蹴りでアサミの脚を攻撃したりしてくる。
一発一発はそれほどの威力はないが、ダメージの蓄積と、体力を奪われることが、アサミにとってはまずい状況だった。

「もー…! 離れなさいってば…!」

アサミが押し返そうとしても、ダイゴはぐいぐいと体を入れてくる。
密着した状態から、何度か下腹部にパンチを打ってみたが、ダイゴのガードが固く、すべて防がれてしまった。

カァン!

ここで、第1ラウンド終了のゴングが鳴った。
ダイゴは自分の作戦が意外なほどうまくいったことに、内心、喜びを隠せないようで、少し微笑みながら、安心したようにコーナーに戻っていった。
一方のアサミは、序盤こそ押し気味だったが、後半の1分ほどでかなりの体力を奪われてしまった。肩で息をしながら、コーナーの椅子に腰を下ろした。

「大丈夫?」

セコンドに入ったユウナが、心配そうに声をかけた。

「まあね。ちょっと予想外かなあ…。次も今みたいな感じで来られると、マズイな…」

アサミは、対角線上にいるダイゴの姿を見つめながら、何か考えているようだった。

「ねえ、ユウナ。ちょっとお願いがあるんだけど」

「え? なに?」

そう言うと、アサミはユウナを自分の正面に立たせて、あちら側のコーナーから見えないようにした。
ダイゴは、セコンドから貰った飲み物を飲みながら、その様子を注意深く観察している。
第2ラウンドもこの戦法でいきたいが、油断はできないと、自分を戒めているような顔つきだった。
やがて、第2ラウンド開始のゴングが鳴った。

カァン!

ダイゴは、気合を入れるように帯を締めなおして、コーナーを離れた。
アサミはギリギリまで、ユウナにグローブを触ってもらっているようだった。
そしてダイゴはやはり、また体当たりするようにしてアサミに突っ込んでいった。

「うおーっ!」

アサミはそれを予期してかのように、素早く横にステップを踏んで逃れようとした。
しかしダイゴもまた、それを予期していたようで、すぐに方向転換をし、アサミをコーナーに追い詰めようとした。

「行けー! ダイゴ!」

「アサミ! 頑張って!」

情勢は、いまや完全にダイゴの方に傾いていた。
アサミは健闘もむなしく、再びコーナーに追い詰められ、なす術なく体力を奪われてしまう。アサミのフットワークが止まれば、さらにダイゴにとって有利な状況になるはずだった。

「おおっし!」

肩で体当たりする際に、ダイゴから気合の声が漏れた。
相変わらず、左手のガードは下げたままで、金的攻撃を警戒している。
油断さえしなければ、ダイゴの勝ちは見えてくるはずだった。
しかし。

「ふんっ!」

意外にも、今回はコーナーに追い詰められたアサミの方から、体をぶつけるようにして、接近してきたのである。
極度に接近した状態から、どういう手があるのか。アサミ以外の女子ボクシング部員たちにも分からなかった。

「んっ! このっ!」

アサミの全体重をかけた押しに、さすがにダイゴも力を入れなおした。
二人の体は密着し、その呼吸さえ聞けるような距離になった。
そのまま数秒間、押し合いが続いたとき、

「あ…! ん…やだ…」

突然、アサミが潤んだような声を出し始めた。
それは密着しているダイゴにしか聞こえないほどのつぶやきだったが、それがかえって、ダイゴの耳の奥深くに届く効果を出していた。

「やだ…もう…。胸が…」

ふと見ると、いつの間にかダイゴの太い肩に、アサミの柔らかい乳房が押し付けられているような状態になっていた。
ダイゴがぐいぐいと肩で押そうとすると、アサミの胸は柔らかく変形し、擦り上げるようなことになってしまっていたらしい。

「ねえ、ちょっと…」

アサミは眉を寄せて、少し憂いを含んだような瞳で、上目づかいにダイゴの顔を見た。
グラビアアイドルが、何か恥ずかしいことをおねだりしているかのような、そんな表情だった。

「あ…! ご、ごめ…んっ!」

ダイゴが驚いて、わずかに半歩、その体を後退させた直後だった。
大きなグローブにおさまっていたはずのアサミの右手がするりと抜けて、ダイゴの股間に伸び、その真ん中にぶら下がっているはずの二つの睾丸を、道着の上から思い切り握りしめた。

「ぎゃあああ!!」

「何か、コロっとした塊だった」と、試合後にアサミは女子ボクシング部員に語った。「握ってみると案外堅くて、つい、思いっきり握ってしまった」とも語っている。

「ぐああぁぁ…っ!!」

握られた方のダイゴは、まさしく地獄の苦しみを味わっていた。
先程まで雄々しく体当たりをしていた大きな体を一瞬にして丸め、なんとかアサミの手から逃れようと、必死に腰を引こうとしている。
しかし、アサミが少し力を込めて引っ張るだけで、あっけなくダイゴの体からは力が抜けて、あっという間に立っているのもやっとという状態になってしまたのだ。

「あ…これは…。反則…か?」

審判役のナオキは、アサミがその手に握っているものを見て、思わず顔をしかめたが、これが反則かどうか、判断しかねた。

「あー。これは、えーっと…。どうかなあ…」

女子空手部のミオも、一瞬、頭を掻いて考えてしまう。
もちろんその間も、ダイゴの睾丸はアサミの手の中に握られ続け、焼けつくような痛みを与えている。

「えー。反則かなあ? だって、ここを攻撃するの、ありなんじゃなかったっけ?」

アサミは、わざとらしくそう尋ねる。

「うーん。金的はありって言ったけど…。どうかなあ。握っちゃうのは、空手でも反則かなあ…」

ミオを含め女の子たちは、ダイゴの苦しみなど他人事のようにして、悩んでいた。

「ちょっ…! とりあえず、離せよ! お前、グローブ脱げてるだろ!」

見かねたナオキが、そう言ってやる。

「あ、そっか。グローブはしないとね。ボクシングなんだから。ゴメンゴメン」

にっこりと笑うと、アサミはようやくダイゴの睾丸を放してやった。

「ぐ…! あぁ…ん…。ハア…ハア…」

解放されたとたん、ダイゴはその場に膝をついて、股間を両手でおさえるようにしてうずくまってしまった。
万力のように感じた圧力からは逃れたとはいえ、ダイゴの金玉からは、相変わらずジンジンと鈍痛が湧き出てくるようだった。
アサミにとっては、ほんの数十秒の出来事でも、ダイゴにとっては果てしなく長い苦しみの時間だった。

「じゃあ、一応、握るのは反則ってことにしようか。さすがに、試合にならないからね」

「はーい。気を付けます」

ミオの決定に、アサミはニコニコしながら返事をした。
足元で苦しんでいるダイゴに対して、少しも悪びれた様子はなさそうだった。

「ダイゴ、大丈夫か? 立てるか?」

リング上では唯一、男子ボクシング部のナオキがダイゴの心配をしてくれていた。
ナオキも女の子に金玉を握られた経験はなかったが、その痛みは同じ男として、容易に想像できた。

「あ…うう…」

ダイゴの顔から血の気が引いて、しゃべることも辛そうだった。
金玉のダメージは、短時間でおさまるものではないことを、男たちはよく知っている。
そして女の子であるアサミも、先程の試合で金玉を攻撃されたコウイチとマサヤが、いまだに苦しんでいるのを見て、そのことに気がついていたのだろう。
もしダイゴが立ち上がれても、もはや試合どころではないほどのダメージを受けていることは明らかだった。

「なに? 立てないの? だらしないわね。反則だったから、ちょっと待ってあげるからね。試合は最後までやりなさいよ!」

審判役のミオが、厳しい言葉をかけてくる。
彼女はつまり、空手が負けること自体が許せないだけで、ダイゴのダメージや体調などはどうでもよかったのだ。

「あ…ああ…。くく…!」

同じ空手部の人間にそう言われれば、ダイゴもうなずかざるを得なかった。
ダイゴにとって、もはや誰が味方なのか分からなくなってしまう状況だった。
数分後。
ミオと空手部の女子に、半ば無理矢理立たされたダイゴが、まったく力の入らない様子で、かまえをとっていた。
もはや女の子の視線など気にする余裕もなく、あからさまに腰を引き、片手で下腹部のあたりをおさえている。
敵であるはずのボクシング部のナオキが気の毒になるくらいの状態だった。

「じゃあ、試合再開しましょうか。始め!」

止まっていた時計が、動き出した。
このラウンドは、あとどのくらい残っているのか。
いずれにせよ、ダイゴは終了のゴングが鳴るまで立っている自信はなかった。

「いくよーっ! えいっ!」

ダイゴが苦しんでいる間、友達と談笑さえしていたアサミは、冷えた体を温めるかのように、次々とパンチを繰り出してきた。
ダイゴの様子を見て、もうなにも警戒する必要はないと判断したようだった。

「うっ! くっ!」

それでも、ダイゴは片手でできる限り、アサミのパンチを防ごうとした。

「それ、それっ!」

しかし、アサミのパンチは徐々にダイゴの顔面をとらえ始めた。
フットワークもなく、上半身を動かすだけでも苦しそうなダイゴに、アサミのコンビネーションを防げるはずがなかった。

「はい! ワン、ツー!」

ビシッ、ビシッ! と、お手本のようなワンツーがダイゴの顔面に決まった。

「うっ…!」

脳を揺らされて、一瞬、ダイゴの意識が飛びかける。
そこへさらに、アサミの低めのボディがきた。

「うあっ!」

空手の帯の下、下腹部のあたりに決まったパンチは、その衝撃を、じんわりと股間にまで伝えてきた。
それは普段なら、大したことのない衝撃だったが、すでに痛めつけられているダイゴの睾丸にとっては、深刻なダメージであった。

「く…くく…」

何とかダウンすることだけは踏みとどまったものの、両手で股間をおさえ、ギュッと目をつむりながら、痛みに耐えていた。
その間、数秒。
アサミはなぜ攻撃をしてこないのかと、ダイゴは目を開けた。
すると。

「あー! 痛い、痛い! アハハハハ!」

ダイゴがしているのと同じように、アサミも両手のグローブで自分の股間をおさえ、内股になり、尻を突き出していた。
そして眉を寄せて、泣き出しそうな顔をしてみせた後、大きく口を開けて笑ったのである。

「……っ!!」

ダイゴにとっては、これ以上ない屈辱だった。
自分の金玉を攻撃した女の子が、どれくらい痛いものかと面白そうに観察し、試合中だというのに、ふざけているのである。

「おい、アサミ! まじめにやれ!」

ナオキが見かねて、アサミを注意した。
敵とはいえ、男としてダイゴに同情せざるを得なかった。

「ダイゴ! 情けない。しっかりしなさいよ!」

一方のミオは、ただ同じ空手部がバカにされていることが悔しいようだった。
金玉の痛みを分かち合える敵から同情され、痛みの分からない味方になじられると、ダイゴは自分は何のために試合をしているのか分からなくなってきてしまった。

「はいはい。まじめにやりまーす」

アサミはすでに、この試合の勝利を確信して、遊んでいるような様子だった。
吐き気さえ催してくるこの痛みを、彼女が与えているのかと思うと、ダイゴはアサミが恨めしかった。
しかし、アサミのピチピチのスパッツの股間を見ると、すっきりとしていて、そこには男のように不必要な突起物などまったくないようだった。
内股になった時にできる、恥骨と両脚の間の小さな三角形の隙間は、女の子特有のもので、それを見たとき、ダイゴの心は完全に折れてしまった。

「ん? うらやましい?」

視線に気がついたのか、アサミは小さく笑った。
ダイゴはその笑顔に面喰って、大きな隙を作ってしまう。

「じゃあ、いくよ! ワン、ツー! アッパー!」

前のめりになっていたダイゴの顔面を、アサミはサンドバッグでも叩くかのようにリズミカルに打ちつけた。
顎に入ったアッパーカットで、ダイゴの脳は激しく揺らされ、ようやくこの痛みから解放されるかと思った。
ダイゴの膝から、力が抜ける。

「とどめ!」

しかし、アサミは無情にも、ダイゴの股間に最後のストレートパンチを打ちつけた。

メリッ!

と嫌な音がして、ダイゴの股間にある男の象徴がひしゃげる。

「んんっ!!」

正面からの金的は、真下からの攻撃ほど威力はない。
しかし、これまで金玉に蓄積していたダメージが、また一気に吹き返してくるようだった。

「ああ…うう…」

これで終わると安心して、油断していただけに、ダイゴの絶望は大きかった。
再び、あの悶えるような苦痛と闘わなくてはならないのだ。
リングの上で丸まったダイゴは、目をギュッとつむって、ひたすら時間が過ぎるのを待つことしかできなかった。

「ダウン! ワン、ツー、スリー、フォー…」

「ちょっと、カウント、早くない? ちゃんと10秒にしてよ」

「え? いや、これが普通だけど…」

「もう一回、最初からやってよ」

「…ワーン、ツー、スリー…」

ミオが食ってかかるので、ナオキはしぶしぶ、カウントを取り直した。
それはもちろんミオのあがきというもので、彼女はそれで、あるいはダイゴが回復して立ち上がってくれるのを期待していた。
しかしナオキの目から見れば、ダイゴのダメージは深刻で、一刻でも早く試合を終わらせたかったし、ダイゴ自身、早くリングを降りて、介抱してもらいたがっていた。

「…ナーイン、テーン!」

ややゆっくりめの10カウントが、ようやく終わった。

「勝者、アサミ!」

「やったあ! 勝ったあ!」

アサミが両手を挙げて喜ぶと、リング上に女子ボクシング部員たちがどっとなだれ込み、祝福した。
一方の男子空手部員たちは、さんざん痛めつけられたダイゴを抱えるようにして、無言のままリングを降りて行った。

「どう? これで、武道場でボクシング部が練習してもいいってことだよね?」

リングを降りていくダイゴに、アサミは声をかけたが、ダイゴは返事さえできなかった。
ただ悔しそうに、唇を噛みしめている。
そこに、ミオが立ちはだかった。

「ちょっと待ってよ。まだ、女子空手部と男子ボクシング部の試合が、残ってるんだけど」

ミオは、男子空手部の情けない敗北に、憤慨しているようだった。
その他の女子空手部員たちも、それは同様のようである。

「あ、そうか。じゃあ、とりあえず、ボクシング部の二勝一分けってとこね。男子、頑張ってよ!」

アサミはそう言って、男子ボクシング部のナオキを激励したが、ナオキはこれまでの試合を見ていて、嫌な予感しかしなくなっていた。
そしてその予感は、より悪いカタチで的中することとなる。




「ファイッ!」

レフェリー役のアサミが開始を宣言するとすぐ、女子空手部のサトミは、男子ボクシング部のジュンに向かって行った。

「シッ!」

ジュンは少し驚いたものの、冷静に距離を取って、ジャブで牽制しようとした。
しかし。

ビシッ!

と、サトミの長い脚が、ジュンの股間を斜め上から鋭く打ち抜いた。

「うっ!!」

ジュンはたまらず、膝をついてうずくまってしまう。

「ダウン! あ、一本だっけ?」

レフェリー役は、アサミだけしかいなかった。
男子空手部員たちは、自分たちを襲ったあまりの惨劇に戦意喪失し、金玉を痛めた仲間の解放に専念していたのである。
ルールでは、空手部は三本取れば勝ちということになっている。

「くくく…」

サトミより10センチはリーチの長いジュンだったが、自分のジャブが届く距離よりもはるか外からの蹴りは、意表を突かれた。
しかも、練習しているというだけあって、サトミの金的蹴りは鞭のようにしなり、横からの攻撃とはいえ、十分すぎる衝撃をジュンの金玉に与えていた。

「ジュン、早く立って」

男子ボクシング部員たちは、うかつにもここで初めて、このルールの残酷さに気がついた。
ボクシング部は10カウント取れば勝ちだが、空手部は三本取らなければ、試合が終わらない。
つまり男子ボクシング部員たちは、最悪の場合、というかおそらく確実に、三回も金玉を蹴られなければ、試合が終わらないのである。

「さあ! 男子の仇、とるよ!」

「おおっ!」

ミオをはじめ、女子空手部員たちは、一斉に気合を入れた。

「……っ!!」

立ち上がれば、金玉を蹴られると分かっている。
しかし立たなければ、試合が終わることはない。
衝撃の現実を目の前にして、ジュンの顔からは血の気が引いてしまっていた。
それからは、悲惨だった。

「はうっ!!」

「ぐえっ!!」

やはり予想通り、三回金玉を蹴り上げられたジュンは、最後には涙を流しながら、リング上を降りて行った。

「俺、ヤダよ。やりたくねえ!」

第二試合に出る予定だったユウスケは、すでに涙目になりながら、リングに上がることを拒否していた。

「ちょっと! 早くしなさいよ!」

「練習場がかかってるんだからね! 棄権なんかしたら、アタシたちがアンタのアソコ、ボコボコにしてやるわよ!」

ボクシング部の女子たちから、恐ろしい声が飛んだ。
すでに勝利をおさめている彼女たちからすれば、男子のせいでその勝利が水泡に帰してしまいそうで、気が気ではなかった。

「ひい…」

ユウスケは、味方だと思っていた女の子たちの剣幕に、本気でビビってしまった。

「大丈夫だって。アタシたち、ちゃんと練習してるから。潰れないように手加減してあげるから。まあ、その一歩手前くらいはいくかもしれないけどね」

すでにリングに上がっている女子空手部のキョウコが、嬉しそうに手招きしている。
ユウスケにとっては、退くも地獄、進むも地獄の状態だった。

「じゃあ、第二試合、始めるよ! ファイッ!」

カァン!

と、ユウスケがようやくリングに上がった直後、ゴングが鳴った。

「う…うう…」

ユウスケをはじめ、男子ボクシング部員たちは、すでに見ていた。
第一試合で、一回目の金的を食らったあとのジュンは、しっかりと内股になって、股間のガードを固めているつもりだった。
しかし空手部の女の子は、まるで魔法のようにあざやかに、あっさりとガードをくぐり抜けて、しなやかな脚で、ジュンの股間を蹴り潰していったのである。
それは、ボクシングのテクニックにはない、空手の技というものだったのかもしれない。
いずれにしても、今の怯えきったユウスケには、目の前にいるキョウコの攻撃を防げるとは誰も思えなかった。

「えいっ!」

またしてもボクシングの間合いの外から、空手の蹴りが飛んでくる。
ローキックを防ぐテクニックなど知らないユウスケは、棒立ちのまま、脛に思い切りキョウコの蹴りを食らってしまった。

「いっ!!」

体がよろけた、その瞬間。

「やっ!」

キョウコの金的蹴りが、ユウスケのトランクスに命中した。

「はうっ!!」

ユウスケは男の本能として、反射的に腰を浮かして避けようとしたが、キョウコはそれを巧みに追いかけて、つま先でえぐるようにして急所をとらえた。
それは結果として、ユウスケの睾丸の最も敏感な部分、副睾丸を捉えることになり、キョウコの言うとおり、潰れることはないにしろ、それに匹敵するかもしれない苦しみを与えることになった。

ドサッ!

と、大きな音と共に、ユウスケの体はリングマットの上に落ちた。
もはや股間をおさえようともせず、背中を反らせたまま、ビクビクと痙攣し、白目をむいている。
どうやら、金的蹴りを受けた直後の空中で気絶し、そのまま受け身を取ることもなく、落ちてきてしまったようだった。

「一本! …って、ちょっと、大丈夫?」

さすがのアサミも心配してしまうくらい、ユウスケの状態は異常だった。
リングサイドにいた男子たちも、助けに行くのを忘れてしまうくらい、凄惨な試合になってしまった。

「あー、ちょっとキレイに裏に入っちゃったかなあ。潰れてはいないはずだけど。どれどれ…」

蹴った本人のキョウコはつぶやくと、ユウスケの股間に手を伸ばし、無造作にそこを触った。

「…ん。大丈夫。そんなに強く蹴ってはいないから、やっぱり、裏に入っただけだね。そのうち、目が覚めるでしょ」

キョウコが手をもぞもぞと動かすと、ユウスケの体はビクリと反応した。

「裏? 裏って、どういうこと?」

その様子を、興味深そうに見ていたアサミが、キョウコに尋ねた。

「んー、なんかね。金的蹴りが、タマの裏の方に入ったときは、かなりヤバイことになることが多いんだよね。こう、ぶら下がってるでしょ。この裏の方。ここが一番痛いんだって」

「へー。そういうのがあるんだねえ。急所の中の急所ってこと?」

「そうそう。偶然、つま先が引っかかっちゃったんだよねー。まあ、ムカついたときは、マジでそこ狙うけど。ミオなんか、金的蹴るときは、いつもそこ狙うよね?」

キョウコの言葉に、リングサイドにいるミオが、大きくうなずいた。

「あったりまえでしょ! どうせ蹴るんだったら、一番痛くしないと、面白くないじゃん。こないだも、学校帰りに痴漢にあったから、思いっきり蹴ってやったよ。しかも、2回ね」

「マジで? 鬼だね、アンタ」

「1回目で気絶しそうになって、落ちる前に2回目を蹴るの。けっこう難しいんだよ」

「うわー、それ、痛そ」

空手部とボクシング部の女の子同士で、金的トークに盛り上がっている間も、ユウスケは痙攣したままリングに横たわっていた。
そしてリングサイドにいたナオキは、次に自分が戦う予定のミオの武勇伝を聞いて、背筋が凍る思いだった。

「あ、じゃあ、とりあえず…。試合続行不可能って感じかな? そうだよね? 空手部の勝ち!」

ようやく、アサミはキョウコの勝利を宣言した。

「よしっ!」

キョウコはガッツポーズをして、リングを降り、仲間と勝利を祝う。
一方のユウスケは、意識が戻らないまま、ボクシング部員数人に抱えられ、練習場の隅にあるベッドに寝かされてしまった。
これで空手部とボクシング部の試合結果のトータルが、2勝2敗1分けになった。
練習場の権利を賭けた争いは、最終試合に持ち込まれることになった。
が、しかし。

「……」

女子空手部の部長であるミオは、待ちかねたとばかりにリングに上がったが、男子ボクシング部部長のナオキは、完全に戦意喪失していた。

「ナオキ! アンタにかかってるんだからね。頑張ってよ!」

女子の部員からそう言われても、ナオキは返事さえできなかった。
その様子を、リング上のアサミが不満そうに眺めていたが、やがて何か気づいたようにハッとした。

「あ、ナオキ。アンタ、アレ着けなさいよ。あの、アソコに着ける変なヤツ。あるでしょ?」

「え?」

「アレよ。たまに着けてるじゃない。…って、たまにって別に、そういうことじゃなくて…。ああ、もう!」

ナオキが訳も分からずきょとんとしている間に、アサミは痺れを切らしてリングを降り、練習道具などがおいてある用具室に入っていった。
やがて持ってきたのは、白い男性用のファールカップだった。

「これだっけ? これ着けてやればいいんじゃない?」

いかにも嬉しそうに、ナオキにそれを渡した。
ナオキは戸惑いながら、ゴムベルトで着けるタイプの、そのファールカップを受け取る。

「ああ、それ、金カップ? ボクシングにもあるんだあ。へー」

リング上のミオは、興味深そうに見ていた。
ナオキは、ファールカップを手に持ったまま、伺うようにそちらを見上げた。

「でも、それってちょっとどうなの? ウチの男子だって、金カップは着けてなかったし」

「ちょっと、卑怯だよね」

女子空手部の部員たちの間からは、そんな声も漏れた。
確かに先程の試合では、男子空手部はファールカップを着けておらず、結果、今でも金玉の痛みに苦しみ続けることになってしまっている。
もしファールカップを着けていれば、これほどのことにはならなかったかもしれない。

「うーん。まあ、別にいいよ。パンチと蹴りじゃ、威力も違うしね。着けたいなら、どうぞご自由に」

ミオは、余裕のある笑みを浮かべながら、そう言った。
ナオキはその答えに、ちょっと意外そうな顔を浮かべたが、それは彼にとって何より好都合だったので、ファールカップを着けることにした。

「え…と…」

が、いざ着けようという時に、迷ってしまった。
今日の試合のために、男子ボクシング部の更衣室は、女子空手部に貸してしまっていたことを思い出したためだ。
そのファールカップは、ボクシング用のトランクスの下、下着の上に装着するタイプのものだったから、着替える場所に困ってしまったのだ。

「ちょっと。着けるんなら、早くしてよ。待ちくたびれちゃうよ」

「ナオキ! 何してんの。早く着ければいいでしょ」

ミオとアサミの両方からせかされて、しょうがなく、ナオキは練習場の壁に向かって、トランクスを脱ぐことにした。

「……」

本人はお尻を向けて、隠しているつもりだったかもしれないが、その場にいる全員が、自然とその様子に注目してしまうこととなった。

「ん…と…」

トランクスを脱いで、ボクサーブリーフの上から、ファールカップを装着する。
きつめのカップの中に、金玉を片手で持ち上げながら押し込んでいくその姿は、女の子の目から見れば、ひどく滑稽なものだった。

「ああやって、あの中に入れるんだあ」

「えー、なんか、きつそう。ずれたりしないのかな」

「あれすると、痛くないのかな」

「大変だね、男って」

女の子たちの囁きと含み笑いが、否応なしにナオキの耳に入ってきた。
しかし、ファールカップを着けなければ、気絶するほど金玉を蹴り上げると予言しているミオの金的蹴りに耐えられるとは思えなかった。

「…よし。いいぜ。始めようか」

ようやくファールカップを装着し終わったナオキは、自信を取り戻したような表情で、リングに上がった。
その姿を、先にリングに上がっていたミオはじっくりと見つめて、やがて、クスクスと笑い出した。

「な、なんだよ?」

「プッ…。いやあ。やっぱり、さっきよりちょっとモッコリしてるなあって…フフフ。そっちの方がいいんじゃない?」

ミオの指摘で、リングサイドにいる女の子たちと、ナオキ自身の視線が、ナオキの股間に集中した。
確かにその股間は、ファールカップを着ける前より、若干膨らんでいるような気がする。

「…ど、どうでもいいだろ、そんなこと! 変なとこ見てんじゃねえよ!」

顔を赤くしながら、しかし股間を隠すわけにもいかず、ナオキは動揺した。

「フフフ…。ゴメンゴメン。ちょっと確認しときたかったからさ。今から、そこを蹴るんだなあって」

「……!」

ミオの金的蹴りの予告に、ナオキは背筋が寒くなる思いだった。




「じゃあ、とにかく始めようか。第三試合、ファイッ!」

アサミの合図で、いよいよ開始のゴングが鳴った。
すぐさま、ナオキは両手を上げてガードを固め、さらにいつも以上に体を斜めにして、股間を正面から隠すかまえをとった。
一方のミオは、相変わらず余裕のある顔つきで、足を大きく引いた、空手のかまえをとっている。
一見して膠着状態に陥りそうだったが、数秒もしないうちに、ミオの方からナオキに歩み寄ってきた。

「シッ!」

ゴングが鳴ってしまえば、ナオキはむしろいつもの落ち着きを取り戻していた。
慣れた様子で、ミオの顔面に向かってジャブを放ってくる。
男子ボクシング部も、男子空手部と同様、女子の胸を攻撃することはできるだけ避けていたが、グローブをしているためか、顔面を打つことに抵抗はなかった。
あるいはそうしなければ、自分たちの身が危ないことを、もはや彼らは知っていたためだった。

「シッ! シッ!」

ナオキのジャブは、さすがにボクシング部の部長らしく基本に忠実なもので、思った以上に有効だった。
ミオは空手の経験しかしたことがなかったため、これほど速いパンチを受けた経験がなかったのである。
ただ、ナオキがジャブを打った直後、いつも通りコンビネーションパンチを打とうと踏み込むと、ミオの脚が防御のためか、スッと上がるのである。
それは、ナオキにとっては金的を攻撃されるかと思い、つい、過剰に反応してしまう動作だった。

「…くっ!」

うかつに踏み込めば、1発や2発のパンチは当てられるだろうが、その後に膝で金的を蹴り上げられるかもしれないという恐怖があった。
実際に、第1試合のジュンは、そうやってサトミに金的を攻撃されてしまったのである。

「えいっ! やあっ!」

ミオは、ナオキが間合いを詰める意識が薄いとみると、さかんに蹴り技を使ってきた。
そこは、股間に急所の無い女の子のことで、少々体勢を崩しても、反撃される不安はないようだった。

「ぐ…あ!」

慣れないボディへの蹴りの連続に、ナオキは思わず顔を歪めた。
グローブを使って、ある程度ガードはできているものの、やはり衝撃のすべてを吸収できるわけではない。
散々ボディへの中段蹴りを放った後、ミオはさらに、上段への回し蹴りを放とうとした。

「せいっ!」

気合と共に脚が上がり、ナオキもそれにつられて、両手のガードを上げてしまったが、次の瞬間、彼の目に飛び込んできたのは、ミオのほくそ笑む顔だった。

「はいっ!」

胸まで上げかけた足を素早くおろし、その反動で、反対側の脚を振り上げた。
狙いはもちろん、ナオキの股間であった。

コーン!

と、高い音が響いた。
ミオの脚が、ナオキの股間のファールカップを蹴り上げた音だった。

「ふっ!」

股間に響く衝撃に、ナオキは思わず左手で股間をおさえた。
ミオの蹴りは、ナオキが内股になっていたため、両脚の間には入らず、斜め下から蹴り上げる形になった。
男がファールカップを着けている場合、この蹴り方でも股間全体に衝撃を響かせることができると、ミオは知っていたのだった。

「く…く…!」

ナオキはしかし、少し前かがみになる程度で踏みとどまることができた。
ファールカップを着けていなければ、確実にダウンしているところだったろう。

「えいっ!」

そこへ、ミオの中段突きが決まった。
胸をまともに突かれたナオキは、その衝撃で膝をついてしまう。

「一本!」

ミオに一本を取られてしまった。
しかし、ダメージは深刻なものではなく、ナオキはすぐに立ち上がることができた。
まだ股間と胸に、ジンジンと響くものはあったが、とりあえず試合続行できそうだった。

「ナオキ! 頑張ってよ!」

「負けたら、許さないからね!」

女子ボクシング部員から、容赦のない檄が飛んだ。

「ミオ! ナイス!」

「油断しないで!」

女子空手部員からも、声援が飛ぶ。
ミオはその声に、手を振って応えるほどの余裕があった。

「ファイッ!」

試合が再開された。
まだダメージの残るナオキは、自分から攻めに行くことはできなかった。
そこへ、余裕そうな表情で歩み寄ってくるミオ。
彼女がちょっと脚をあげる仕草を見せるたび、ナオキは過剰に反応してしまうようになった。

「……っ!」

ナオキは徐々に後退し、いつの間にかコーナーに追い詰められてしまっていた。
リングの使い方に関しては、ボクシング部である自分の方が上だと思っていたが、いつの間にか空手部のミオも、コーナーに追い詰める術を理解していたようだった。

「くそっ!」

困った時ほど基本に忠実にと、ナオキはジャブを放った。
しかしそのジャブには、先程のようなキレと重みはなさそうだった。
ミオは間合いのわずか外から、じっくりとナオキの様子を観察しているようだった。

「金カップ着けてれば、あんまり痛くないと思ったでしょ?」

「…え!?」

パンチを打ちながら、ナオキは動揺した。

「さっきのは、全然本気じゃなかったからね。ただ、アンタの動きを止めるためだけの金的蹴り。次は、思いっきり蹴ってあげる」

ナオキの脳裏に、先程の痛みがよみがえってきた。
そしてミオはまた、スッと右脚をあげて、金的を蹴るそぶりを見せる。

「うわっ!」

思わず、グローブを着けた両手で、股間をガードしてしまった。

「せいっ!」

そこへミオが大きく踏み込み、がら空きになったナオキのボディへ、渾身の下突きを放った。

ボグッ!

と、拳が腹筋を突き破り、内臓にめり込む音がした。

「ぐえぇっ!!」

強烈な一撃だった。
ナオキは股間を守っていた両手を上げて、腹をおさえるしかなかった。

「あ、いっぽ…」

「まだまだ!」

アサミが手を挙げかけたとき、ミオがさらにもう一歩踏み込んで、ナオキの両肩を掴んだ。
そしてグッと沈み込むと、両脚のバネを使って、飛び上がるような膝蹴りを、ナオキの股間めがけて打ち込んだのである。

ゴンッ!

という鈍い音は、ファールカップがナオキの恥骨にめり込んだ音だったろう。
ミオの膝は、ナオキの金玉に直接触れることはなかったが、一瞬体を浮かすほどのその衝撃は、十分に伝わった。

「はあっ!!」

ドーム状になっているファールカップの容器は、その中にすっぽりとおさまっている二つの睾丸に、かえって四方から衝撃を伝えることになった。
金玉袋の真下、正面、左右、そして裏側。それぞれからまんべんなくミオの膝蹴りのエネルギーが伝わり、それらが袋の中に入っている金玉の中でぶつかり合い、反射する。
お寺の釣鐘を突いたときに、その振動がいつまでも中に留まるように、その衝撃はナオキの急所を痛めつけ続けることになってしまった。

「うっ…くあっ…!!」

ナオキは、自分の天地が一瞬でひっくり返ったことにも気がつかなかった。
股間からせりあがってくる強烈な痛みが、電撃のように背骨を伝って全身に広がり、呼吸さえできなくなっていたのだ。
自分が今、どんな格好をしているのかさえ分からないほどに、彼の全身は痛みで覆われてしまったのだった。

「い、一本! 合わせて、二本! 空手部の勝ち!」

ナオキが、力なくリング上に倒れたのを確認して、アサミが試合終了を宣言した。

「やった!」

ミオは、それに合わせて高々と両手を上げる。

「やったね、ミオ!」

「さすが!」

女子空手部員たちがリングに上がり、ミオの勝利を祝福する。
そんな中、彼女たちの足元に転がって、真っ青な顔で震えているナオキを、アサミはボクシング部の仲間として、一応、心配してやった。

「うわー…。ちょっと、大丈夫?」

唇を震わせながら、口の端から涎を流しているナオキを見て、アサミはちょっと引いたような声を上げた。
もちろんナオキは、返事をするどころではない。
すると、彼に代わって、彼をこんな状態にした張本人であるミオが答えてやった。

「ん? ああ、大丈夫。金カップしてれば、潰れないから。ただ、痛いだけ」

「え? ああ、そうなんだ。ただ痛いだけなんだ。ふーん」

アサミはそれを聞いて、急に冷めたような顔つきになった。

「あーあ。負けちゃったなあ。もー、ナオキってば、あっさり負けちゃって。情けないなー」

アサミの言葉はナオキの耳にも届いたが、それに言い返すだけの気力も余裕もなかった。

「ホント。アタシたちは勝ったけど、男子は負けちゃったね。これじゃあ、練習場の件も無理かな」

「うーん…」

女子ボクシング部の女の子たちに、沈んだ空気が流れてしまった。

「まあね。ウチも男子は負けたけど、アタシたちが勝ったから、なんとかなったよ。まあ、ギリギリかなあ」

ミオの言葉に、女子空手部の女の子たちもうなずく。
ふと、彼女たちの間に共通の意識があることに、ここで初めて気がついた。

「ホント、男子って弱いよねえ」

ハッと、女子ボクシング部、女子空手部の女の子たちは気がついた。
練習場所を賭けたこの試合で、生き残っているのは、ボクシング部と空手部、両方の女の子たちだけではないかと。

「ねえ、ちょっといいアイデアがあるんだけど…」

「ホント? たぶんそれ、アタシも考えてた」

ニッコリと、アサミとミオは笑いあった。
そして、これまでの試合で傷つき、まだ股間をおさえて呻いている男子たちに向かって言った。

「これから、女子が優先的に練習場所を決めるから。男子たちは、どっかで勝手に練習しといて!」

女の子たちが声をそろえてそう言ったため、その場にいる男子たちは、誰も何も言い返せなかった。
言い返そうにも、「文句があるなら、かかってこい」と言わんばかりの女の子たちの強気な態度に、すでに心を折られている男の子たちは、何も言うことができなかった。
男子空手部と男子ボクシングの苦労は、これからだった。



終わり。


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