佐伯はチホの後ろ姿を見て、同じ道場に通っていたころを思いだしていた。それはもう5年ほど前のことだったが、その当時から彼女は、金的蹴りの稽古を人一倍熱心に行っていた記憶がある。 一方の佐伯は、恵まれた体格と才能を生かして、すでに大会で好成績をおさめるようになっていた。 二人はそれほど親しい間柄ではなかったが、一度、佐伯が聞いたことがある。
「おい、西ノ宮。お前、金的蹴りの稽古ばかりしてるが、そんなことして意味があるのか?」
その質問に、チホはきょとんとした顔をした。 佐伯の質問の意味は、チホが普段、道場で試合をする相手は女性がほとんどなのに、金的蹴りの稽古をする必要があるのか、ということだった。 そのころはまだ佐伯でさえ、チホが大会に出て、男性を相手に試合をするようになるとは考えられなかったのだ。 しかしその意図が、チホには伝わらなかったようだった。
「だって、私みたいに身長も力もない人間が、大きな相手を倒そうと思ったら、金的を狙うのが一番なんですよ。佐伯さんみたいな大きな人だって、金的をまともに蹴られれば、立っていられないでしょう?」
それは確かにそうだが、俺はそんなことを聞いたわけじゃないと、佐伯は口をつぐんだ。 この女は何か、自分とはまったく違うことを考えているようだと、何となく感じた。
「大きな相手を倒すって、お前は何を目指してるんだ? 試合に勝ちたいわけじゃないのか?」
普段の試合では男性と女性がやり合うことは滅多にないし、さらに選手たちには階級というものもある。 あまりに違う体格の選手同士が戦うことはほぼありえないのに、チホは何を思って金的蹴りを極めようとしているのだろうと、佐伯には理解できなかった。 するとチホは、少し考えるように首を傾げて、中空を見つめた。
「うーん、そうですね…。試合に勝ちたいとは思ってますよ。ただどうせ勝つんだったら、自分より体格の大きな人に勝つのが楽しいような気がするんですよね。って、私より小柄な人って、そんなにいないと思いますけど」
チホの身長は、150センチそこそこというところだった。 確かに女性でも、空手を習おうという人は、チホよりも低い身長の人はなかなかいない。
「こんなこと言ったら、怒られるかもしれないですけど。私よりずっと大きな人が、たった一回の金的蹴りで沈んでしまって動けなくなるのは、面白いと思ってます。前の大会で佐伯さんに勝って優勝した人だって、私の金的蹴りをまともに受ければ、動けなくなると思うんですよね。そう考えると嬉しいというか、楽しいというか。でも武道っていうのは、本来そういうものだと思うんですよね」
「武道だと?」
「はい。最小限の力で、最大限の効果を生み出し、身の危険を払うというのが、武道の本来の目的じゃないですか。私は、金的蹴りはその武道の目的に一番近い技なんじゃないかと思っています」
チホの口から、武道という思いもかけない言葉が出たことに、佐伯は面食らった。 しかし、この小柄な若い女性が、武道の理念のようなものまで考えて稽古をしていたとは、片腹痛いという思いもある。
「なるほど。確かにお前みたいに非力なヤツには、ちょうどいいのかもな。お前がいくら体を鍛えても、俺みたいに蹴りで相手をふっとばすことはできないからな」
厚い胸板を反らせるようにして、佐伯は嘯いた。
「はい。そうですね。だから私は、絶対に鍛えられない急所を狙うんです。相手の弱点を狙わないと、私は勝てませんから」
佐伯の皮肉など、まったく意に介していない様子だった。 あるいは彼女自身、体格や力の問題に関しては、自問自答を繰り返してきたのかもしれなかった。自分の恵まれない体格を嘆き、悩み、それでも相手に勝ちたいと考え続けた結果が、金的蹴りなのかもしれない。 金的蹴りを極めれば、どんなに大きく強い男にでも勝つことができる。彼女はそう信じて、誰からも認められなくても、金的蹴りの稽古を続けているのかもしれなかった。 しかし、佐伯のように生まれついて強靭な肉体を持った男にとっては、空手の試合とは相手を叩きのめすためのもので、そのためには技を磨く必要もあるが、何より相手を圧倒する力を持っていなくてはならないというのが絶対の真実だった。 二人はお互いを認めてはいるものの、完全に理解することはできないということを、肌で感じた。
「ふん。そうか。そういうことなら、せいぜい頑張るんだな」
「はい。頑張りますよ」
チホは笑いながら、大きくうなずいてみせた。
佐伯はあの時のチホの笑顔を思いだし、生意気なヤツだと思った。 確かにあの時とは比べ物にならないほど、彼女の金的蹴りは上達しているようだったが、それをもって自分も参加しているこの大会を制してしまおうなどと、認めたくはないという気持ちだった。 佐伯は立ち上がると、チホの後を追うように、ホールを出て行った。
決勝戦が始まる10分前、チホが控室を出てきた。 その表情は落ち着いていて、いい意味での緊張感に溢れている。 一歩一歩確かめるように廊下を歩きだすと、目の前の床が、不意に暗くなった。
「よう。西ノ宮。いよいよ決勝戦だな。初出場でここまでくるとはな」
見ると、佐伯の巨体が廊下を塞ぐようにして立ちはだかっている。 彼も自分の決勝戦前のはずだが、チホが控室から出てくるのを待っていたようだった。
「佐伯さん。お久しぶりです。佐伯さんこそ、3連覇がかかった決勝じゃないですか。頑張ってください」
チホの表情は、試合の直前とは思えないほど、涼やかなものだった。
「まあな」
佐伯は鼻で笑った。お前に言われるまでもないという雰囲気で、傲岸な態度を隠そうともしていなかった。 チホが目だけで笑って、歩き出した時、
「つまらない技を身につけたみたいだな。お前らしいといえば、らしい」
チホが佐伯の顔を見上げた。
「階級が違って、良かったな。あんなくだらん技をいくら極めても、俺には通用しないぞ。カウンターでふっとばされるのがオチだ」
ニヤリと笑っている。 佐伯が自分の金的蹴りのことを指していることがチホにも分かったし、その裏に彼女の血のにじむような稽古があるのを見抜いていることが、すぐに理解できた。 そして、それを全面的に認めていないということも。
「そうでしょうか…」
チホは口元で少し笑っただけで、そのまま下を向いて、佐伯の横を通り過ぎようとした。
「おい、待て!」
予想していたよりもずっと薄い反応に、佐伯は不満を覚えた。 その肩を掴むようにして、チホを引き留めようと振り向いた。 その時、
「うっ!?」
自分の股間に、突然違和感を感じた。 目を落とすと、いつの間にかチホの右脚が振り上げられていて、さらに足の甲が、ぴったりと道着の股間に張り付いている。 目を疑うような、あざやかな金的蹴りの寸止めだった。
「あっ…う…!」
佐伯ほどの空手の達人が、チホの蹴りを見逃すはずがなかった。事実、彼はチホの前に立った時から、瞬きほどの隙を見せたつもりもない。逆に隙あらば彼女に一撃を入れようかという気概すら持っていたつもりだった。 しかし現実は、チホの白い素足は無防備な股間に跳ね上げられ、わずかに触れるか触れないかのところで寸止めされているのである。 チホにもしその気があれば、佐伯は今ここで立っていることなどできないはずだった。
「試合中じゃないからなんて、言いませんよね?」
チホは、かすかに笑っているように見えた。 さらにその眼は、今、次の瞬間にでも、つま先を佐伯の股間に引っかけてえぐり抜き、彼に地獄の苦しみを味わわせることもできると、そう言っているようだった。
「一日二千本。この数年間、私が続けてきた金的蹴りの回数です。毎日毎日、男性の金的を蹴ることだけを考えてきました。股間にある二つのタマを思い浮かべて、一日も休まずです」
チホは脚を下げぬまま、語り始めた。 ピタリと寸止めをしたまま微動だにしない、恐ろしく強靭な足腰を身につけているようだった。
「実戦で倒したのは、三百人くらいかな。たくさんの方の金的を蹴らせてもらいました。百人を過ぎたくらいからかな。足の感触で、金的のことが分かるようになってきたんですよね。蹴られた後、どう衝撃が伝わって、どういう風にタマが動いて、どう歪んでいくのか。どうやって蹴れば痛みが増すのかも、よく分かるようになりましたよ、フフフ…」
佐伯はまったく身動きができなかった。 少しでも抵抗する気配を見せれば、ただちに床を這いつくばることになると、彼の直感が教えていた。
「そうすると、不思議ですよね。最初は小さくて狙いにくいと思っていた金的が、すごく大きなものに思えてくるんです。相手がどんなに素早く動いても、金的だけは見逃しません。あ、大きいって言っても、そういうアレじゃないですよ。特に佐伯さんのは…まあ、普通かな。フフフ…」
チホの脚が、佐伯の金玉を品定めするように、柔らかく動いた。足の甲で転がすようにして、大きさを確かめているようだった。 不覚にも、佐伯はその動きに男の快感を感じてしまう。 それすらも見透かしているような、チホの笑顔だった。
「金的蹴りって身につけると、とっても便利で楽しいですよ。今、私の道場では、小学生の女の子たちに金的蹴りを教えているんです。みんな上達が早いですよ。佐伯さんや他の男の人たちは、なんで金的蹴りを使わないんですか? 痛いのが分かって、かわいそうだからですか? それとも、自分も蹴られるのが怖いから? どうなんですか?」
「そ、それは…」
「まあどっちにしろ、ちゃんと練習しとかないと、女性と立ち合った時には、簡単に蹴られちゃいますよ。女は金的の痛みも知らないし、自分が蹴られる心配もないんですから。こんな風に、思いっきり、バシンってね!」
「や、やめろ…!」
チホがわずかに脚を下げて、金的を蹴る素振りを見せたとき、佐伯は思わず叫んでしまった。
「バシン!」
「うわっ!」
チホの脚は、その言葉とは裏腹に、佐伯の金玉をわずかに持ち上げただけだった。 下半身には、かすかな鈍痛がじわっと広がっただけだったのだが、佐伯は思わず、股間を両手で抑え、内股になって守ろうとしてしまう。 結局その反応すらもチホの予想通りだったようで、彼女は静かに脚を降ろし、脂汗でびっしょりになった佐伯を見下ろした。
「佐伯さん。階級が違って、良かったですね」
佐伯が顔を上げたときには、すでにチホは背を向けて、歩き出していた。
その後、チホは決勝戦で見事に勝利し、この大会で初めての女性の優勝者となった。決勝の相手は、チホに合計で3回、金的を蹴られてしまった。 一度目は相手も警戒していたため、チホのつま先がかすった程度。それでも、相手選手の体にはかなりのダメージがあり、それにより生まれた恐怖心は、彼本来の動きのキレを奪うには十分すぎるものだった。 そうして動きが鈍くなったところに、二度目の金的蹴りが決まる。 しかしこれも相手の攻撃をかわしながらだったためか、十分な体勢でなく、相手選手は男の意地を見せ、立ち上がった。 そこで別な技を使っても勝てたのだろうが、チホの右脚は無情にも、三度相手の股間を跳ね上げた。 スピード、角度、タイミング、それらすべてが、今大会で繰り出した金的蹴りの中で最高と呼べるもので、蹴ったチホ自身が快感を感じるほどに、非の打ちどころのない金的蹴りだった。 もちろん、蹴られた方は一瞬で気絶し、幸いにも地獄のような苦しみを意識のあるうちに味わわずにすんだ。
大会が終わった後、男女が試合をするときには、ファールカップの着用を認めるとすぐさま決定された時に、反対する者は誰一人いなかった。
佐伯は腹痛で決勝戦を棄権し、3連覇はならなかった。
終わり。
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