春。新しい出会いと生活に溢れる季節。 とある大学に入学した佐々木マサヤは、その空手部の門を叩こうとしていた。 小学校から高校まで、某空手道の道場に通っていた彼の実力は確かで、組手の大会で優勝したこともあった。 そんな彼が、今さら普通大学の空手部などに通うメリットはあまりなかったが、ちょっと腕試しというか、自分の実力を誇示するための道場破りのようなことをしてみたくなったのだった。
「お願いします!」
道場に入るとすぐ、大きく声を上げた。 それは挨拶というより、威嚇に近いものだった。
「はい。こんにちは」
見ると、道場の真ん中に、ちょこんと一人の女性が正座している。 時間が早すぎたのか、まだ稽古は始まっていないようだった。 すでに道着に着替えてきていたマサヤは、軽く失望した。
「あの…。ここは、空手部の稽古場ですよね?」
「はい。おっしゃる通りです。アナタは新入生かしら? 私は、ここの指導をしています西ノ宮です。よろしく」
女性は座ったまま、ペコリと頭を下げた。 まだ30歳にはなっていないようなその女性は、小柄で、いかにも大人しそうな女性教師という印象だった。
「ああ、はい。佐々木です。よろしくお願いします。…その、稽古はまだ…ですよね?」
「そうですね。みんなが揃うには、まだちょっと時間がありますね。佐々木さんは、空手の経験がおありなんですか?」
「はい。まあ、少しは…」
「まあ。それは素晴らしいですね。経験者の方が入部されれば、部長たちも喜ぶと思いますよ。頑張りましょうね」
その女性、西ノ宮チホは、笑顔でうなずいた。
「ああ、いや、まあ…。まだ入部するって決めたわけじゃないスけど…」
マサヤはきまりが悪そうに、頭を掻いた。 実際は入部するつもりなどなく、この空手部で一番強そうな人間、例えば部長などに勝負を挑んで、叩きのめしてやろうと考えていたのだ。 しかし、目の前にいる小柄な女性が指導をしていると聞いて、これは想像以上に軟弱な空手部だったと思い、それなりに気合を入れてきた自分に後悔している。そんな状態だった。
「あらあら。それはまた、どうしてですか? せっかく道着まで着てこられたのに。みんな仲良しで、楽しいですよ、ウチは」
「いや、まあその…。俺は自分より強い人と稽古したいんスよね。そうじゃないと、強くはなれないでしょ。ここに、俺より強い人がいますかね?」
どうせ入部はしないと思い、かなり失礼にあたるとは思いながらも、そう言った。
「まあ。そういうことですか。佐々木さんは、とても熱心なんですね。でもそういうことでしたら、私がきちんと佐々木さんを指導して差し上げますから、大丈夫ですよ。一緒に頑張りましょう」
マサヤが拍子抜けするほどに、ペースの違う相手だった。
「え? あ、いや、頑張るっていうか…。アナタが指導するんですか? 俺に?」
「はい。もちろん」
チホは笑顔でうなずいた。 どう見ても、空手の鍛錬を積んできたとは思えない体つきだったが、よく見ると、彼女の道着を締めている帯は、紛れもない黒帯だった。 しかし、マサヤももちろん黒帯である。黒帯といっても、いろいろな人間がいる。そう思って、マサヤは再び無礼なことを言った。
「じゃあ、ちょっと今ここで、稽古つけてくれないスかね? それによって、入部するかどうか決めますから」
「なるほど。佐々木さんは、実践主義の方なんですね。分かりました。お相手しましょう」
臆することもなく、チホはすっと立ち上がった。 身長は150センチそこそこ。 どう見ても、180センチ近いマサヤの稽古相手が務まるとは思えなかった。
「ハハッ! マジッスか? 組手でもします?」
「いいでしょう。他の部員たちが来るまでですけど」
そんなに時間はいらない。速攻で叩きのめしてやる、と、マサヤは道場に上がった。
「準備運動とかは、いいんスか?」
「私は武道家です。武道に準備などありませんよ。佐々木さんは準備運動したければ、どうぞ」
見かけに反して、一丁前なことを言うと思い、マサヤはむっとした。
「いや、俺もいいッス。俺も武道家ッスから」
「では…」
すっと、ごく自然な様子で、チホはかまえをとった。 それに合わせて、マサヤも慣れたかまえをとる。 ルールも決めず、開始の合図もなかったが、二人の間ではすでに試合が始まっていた。
(ヤバイ…)
と思ったのは、マサヤである。 不覚にも向かい合ってみて初めて、相手の実力が分かった。 いや、そこで分かっただけでも誉めてやるべきだったかもしれない。それくらい、西ノ宮チホの見た目と実力には、大きすぎる開きがあったのだから。
「せぇい!」
道場の窓が震えるような声を発したのは、チホの方だった。 しかも彼女は微動だにせず、声に気圧されたマサヤの方が、うかつにも手を出してしまった。
「わっ!」
自分でも、何をしたのか覚えていない。 右の正拳突きで、彼女の顔面を狙ったような気がするが、定かではない。 とにかく気がついたときには、佐々木マサヤの股間には、西ノ宮チホの右足が深々とめり込んでいたのだ。
「ふうぅっ!!」
瞬時に背中を丸めて、その場に這いつくばった。 例えようのない重苦しい痛みが、全身に広がり始める。
「あらあら。大丈夫ですか?」
両手で股間をおさえ、じたばたと足を動かしながら転がるマサヤに声をかけた。 しかしその表情は、先程と変わらぬ穏やかさで、相変わらず微笑さえ浮かべているように見えた。
「く…く…!!」
地獄のような重苦しい痛みの中で、マサヤは必死に今の立ち合いを反芻しようとしていた。 チホが放った金的蹴りは、自分が今まで食らったどの金的蹴りよりも鮮やかで、正確だった。最小限の動きで正拳突きをかわし、これ以上ないというタイミングで、右足を跳ね上げたのである。そこには一切の無駄な動きがなく、迷いもためらいもなかった。 男の最大の急所を最も効果的に蹴り上げて、最も大きなダメージを与えようという、恐ろしいまでの冷徹な意思を、マサヤはチホの金的蹴りから読み取らざるを得なかった。
「大丈夫ですか? ちょっと休憩しましょうね」
「参りました」という言葉が喉まででかけていたマサヤは、顔を上げた。 その表情を読み取ったのか、チホはにっこりとほほ笑む。
「どうしました? 他の部員が来るまでは、稽古をつけてあげますよ?」
「……!!」
以前、道場にいた、冷酷なまでに厳しい稽古を要求する先輩を、マサヤは思い出していた。 チホの目の奥は、決して笑ってはいない。 折れそうになった心を必死に立て直して、マサヤは歯を食いしばり、なんとか立ち上がろうとした。
「お、お願いします…!」
「はい。お願いします」
よろよろと立ち上がり、完全に腰を引いたかまえをマサヤがとっても、チホはためらう様子はなかった。
「佐々木さんは、かなり稽古を積んでいるようですが、まだ動きが固いですね。ちょっと打ってきてください」
どうやら本当に指導をしてやるつもりで、チホは立ち合っているようだった。 気を抜けば膝をついてしまいそうになる痛みの中で、マサヤはそれでも懸命に自らを鼓舞した。
「せいっ!」
これまで厳しい稽古を続けてきた自分が、こんな小柄な女性に負けるはずはない。 そう思って、先程とは比べ物にならないほど集中し、気合を込めた正拳突きを放った。
「はい。固いですね」
しかしチホは、繰り出された拳を無造作に払いのけると、易々とその懐に入ってしまった。 そしてまた、極めて滑らかな動きで足を跳ね上げ、マサヤの股間を蹴り上げようとする。
「うっ!!」
思わず飛び跳ねるようにして腰を引いたが、意外にもその足はマサヤの急所の寸前で止まっていた。
「動きが固いから、相手に簡単に読まれてしまうんですよ。さあ、もう一度」
「く…そっ!」
完全にもてあそばれていると感じたマサヤは、下半身の痛みを振り払うようにして、次々と攻撃を繰り出した。 しかしそれらは一発として当たらず、すべて空しく空を切ったり、絶妙なタイミングで受け流されたりしてしまった。
「はい、固い。これもそう。これもダメですね」
しかもチホは、何発かに一発は、完璧なカウンターの金的蹴りを織り交ぜてくるのである。 それらはすべて寸止めだったが、一発でも当たれば、またマサヤは床に這いつくばってしまうことは明らかだった。
「ハア…ハア…」
すべての攻撃をかわされて、さすがにマサヤの息が切れてきた。 一方のチホは、汗一つかいている様子はない。
「あらあら。疲れてきたみたいですね。じゃあ次は、守りの方もみてあげましょうか」
「なにを…!」
「はい」
と、マサヤが身構える暇もなく、チホはすっと射程距離に入ると、再び金的蹴りを放った。その絶妙な呼吸は、とてもマサヤの実力で見切れるものではない。 今度は寸止めではなく、先程よりも軽く、ほんの少し当たる程度の蹴りだった。
「うっ!!」
それでも、男にとっては激痛である。 マサヤはたまらず、内股になって股間をおさえてしまう。
「最も効果的で狙いやすい急所の一つが、金的です。部活の生徒たちにも、隙があれば積極的に金的を狙いなさい、と教えています。逆に、佐々木さんは金的の防御を常に意識しなくてはいけませんよ。男の子なんですから」
「…このっ…!」
まだ怒りが保てるほどの痛みだった。 あるいはチホは、それを狙って、力を調節したのかもしれない。 なりふり構わず殴りかかったが、チホにとってはかわすことなど造作もなかった。
「ほら、また」
ビシッと、チホの金的蹴りががら空きになったマサヤの股間に決まった。
「っっつ…!!」
まだ痛みが残っている睾丸をさらに跳ね上げられて、マサヤは声にならない悲鳴を上げ、膝をついてしまった。
「金的のガードがおろそかになってますよ。男性にとっては最大の急所なんですから、しっかりと守ってください」
「く…そっ…!」
膝をつきながら、内臓を掻き回すような重苦しい痛みに耐えるマサヤ。 見上げれば、そこには自分よりもずっと小柄で華奢な女性しかいないのである。 こんな相手に翻弄されている自分に、マサヤは激しい怒りを覚えた。
「私は金的しか狙いませんので、頑張って守ってください。佐々木さんは金的の防御が特に甘いようなので、いい稽古になると思いますよ」
にっこりと笑いながら言うチホの笑顔に、マサヤは戦慄する思いだったが、すぐにそれを振り払うように、怒りを込めた目つきで立ち上がった。
「おらぁ!」
普段は禁止されている、顔面への蹴りを放つ。 もはや女性を相手にしているという意識は、マサヤにはなかった。
「ああ、蹴りはいけませんよ」
マサヤの蹴りを、鼻先スレスレでかわしたチホは、そのままマサヤの足が着く前に、がら空きの股間につま先を当てた。
「はうっ!!」
その蹴りはそれほど素早いものではなかったが、チホの指は、正確にマサヤの金玉を押し潰したようだった。
「足を高く上げるときは、よほど注意しないといけませんよ。今みたいに、金的が狙いやすくなっていますからね」
「う…ぐぐ…!!」
金玉の痛みは、わずかな時間差をおいて上がってくる。 その時間差は、男に大切なシンボルを攻撃されたという怒りを感じさせるには十分なものだ。 マサヤは本格的な痛みが上がってくる前に、かっとなって、再びチホの顔面めがけて蹴りを放った。
「ほら、また!」
行動を読んでいたのか、チホはマサヤの蹴り足が届く前に、カウンター気味にその股間に蹴りを当てた。
「はあっ!!」
そのつま先は正確に、マサヤの金玉袋の裏側を捉えた。 マサヤ自身の蹴りの動作とチホの蹴りの速度が重なったことで、さっきとは比べ物にならない衝撃が、マサヤの股間を突き抜ける。
「ダメですよ。ちょっとは反省しなさい」
「ぐう…う!!」
マサヤはすぐさまその場にうずくまり、床に額を擦りつけ、両手で股間をおさえた。 下半身には、これまでで最も重たく、鋭い痛みが広がり始めている。
「今の蹴りは、金的の裏を狙ったんですよ。分かりましたか? 金的の裏には、副睾丸というのがあって、そこは急所の中の急所といわれるくらい、危険な場所なんです。気を付けてくださいね」
ニコニコと笑いながら話す内容ではなかった。 マサヤはもちろん、金玉袋に裏から当てられると、普段よりも遥かに痛いということは経験で知っていた。 しかし目の前の女性が、自分のそこを狙って攻撃してきたということに、これ以上ないくらいの恐怖を覚えた。 彼女が本気だったなら、今以上の苦しみを自分に与えることができたのは、間違いない。 掌の上でもてあそばれているよりももっとひどい、決して埋まることのない実力の差が、そこにはあると思わざるを得なかった。
「佐々木さん? もうおしまいですか?」
マサヤの心境の変化を感じ取ったのか、チホの体からふっと気合のようなものが抜け、うずくまるマサヤの側にしゃがみこんだ。 それはきついお仕置きを終えた後の主人のような、ごく自然な動作だった。
「す…すいませんでした…。すいません…」
消え入るような小声で、マサヤはつぶやいた。 覗き込むチホの顔を、見ることができない。 何に対して謝っているのか、自分でも分からなかった。
「アナタは、みくびっていましたね。最初に私を見て、大したことないと思ったんでしょう。女性で、小さいから、自分より弱いと思ったんじゃないですか? それは武道家にはあってはならない油断です。分かりますか?」
チホの顔には、先程までの笑顔はなかった。 少しだけ声を低くしてつぶやいただけだったが、マサヤにはそれは閻魔大王の底響きするような声に聞こえた。
「あ…あ…すいません…!」
「勝負の世界で油断をすれば、痛いだけはすまないこともあるんですよ。私が佐々木さんの金的を潰すチャンスが、何回あったと思いますか? 金的を潰されれば、男性はショック死することもあるんですよ。分かっていますか?」
「はい…はい!」
チホに食らった金的蹴りの感触が蘇ってきて、マサヤは何度もうなずいた。 確かに彼女が本気だったなら、マサヤの金玉は10回は潰されていたかもしれない。それくらい正確な蹴りを、マサヤは何度も食らっていた。
「あの…すいませんでした…! ホントに…調子乗って…すいません!」
いつの間にか、股間をおさえたまま、土下座するような格好で、チホに謝っていた。 自分の男のシンボルである最大の急所が、彼女の手の中に握られているような心境が、マサヤを襲ってしまっていたのだ。
「うん。まあ、そうですね。次からは、もう少し真剣に相手を観察して…」
チホがそう言いかけたとき、道場の入り口に一人の女子生徒が現れた。
「あーっ! 先生、またやってる!」
「あら。部長。こんにちは。もうそんな時間かしら」
部長と呼ばれたその女子生徒は、チホの質問には答えず、駆け寄るようにしてマサヤのそばに近づいてきた。
「もー、先生。この子、新入生でしょ? やめてって言ったじゃないですか。新入生の男子をいじめるのは。また空手部の変な噂がひろまっちゃうでしょ。新入部員がこなくなったら、どうするんですか?」
「変な噂? そんなのがあるんですか?」
「そうですよ。あの空手部に入ったら、急所を潰されるとか、オカマになるとか。先生のせいですからね!」
部長にそう言われると、チホは「まあ」と一声上げて、黙ってしまった。
「ちょっとアナタ、大丈夫? ゴメンね。この先生、金的マスターって呼ばれてるからさ。金的ばっかり蹴ってきたでしょ? 普段は優しい人だから、女子にはすごい人気あるんだけど、男子にはね…。ウチに入部しようとしてたんじゃないの? ホントにゴメンね」
金的をおさえてうずくまるマサヤの姿を見て、部長はすべて承知したようだった。 マサヤは声を出す気力もなかったが、わずかにうなずくことができた。
「でも、佐々木さんはかなり強かったですよ。相当、稽古を積んでるみたいですね。ぜひ、ウチに入ってもらえれば…」
「もー、先生! いくら強くても、金的蹴ったら同じでしょ! 先生の金的はマジでヤバイんだから、ちょっとは自覚してくださいよ。そんなんだから、ウチは男子の部員が少なくなっちゃったんですよ! みんな、先生に金的を蹴られ過ぎて、辞めちゃうんだから」
「ええ? そうだったんですか? それはまた…。でもやっぱり、金的蹴りは簡単で効果も高いですし…しっかり守れば問題は…。ホントにそうなんですか?」
チホは部長の言葉が、まだ信じられない様子だった。
「もー、先生!」
部長がため息をつく。 マサヤは床にうずくまりながら、まだまだおさまりそうのない痛みの中で、この空手部にだけは絶対に入部しないと心に誓っていた。
終わり。
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