アダルトビデオの監督は、忙しい。 特に小規模な会社の場合、タツヤのような若い監督は、先輩監督の手伝いや使い走りをさせられることも多かった。 この日もタツヤは、深夜までスタジオ入りし、撮影の補助や女優の世話など、忙しく立ち回っていた。 次のシーンの準備のため、休憩室で知り合いの女優と二人きりになったとき、ふとタツヤは尋ねてみた。
「アミちゃんってさ、空手かなにかやってたんだっけ? なんとか拳法だっけ?」
「んー? 少林寺拳法のこと? やってたっていうか、ちょっとだけね。段とかは持ってないけど。なんで?」
「いや、あの、あれやったことあるのかなって。何ていうのかな…金蹴り?」
「はあ? 何それ? 金的蹴りのこと?」
「ああ、そう。それ。やったことあるんだ?」
「んー。まあ一応、練習するからね。ていうか、アタシが少林寺始めたのも、もともと護身術って感じだったから。わりと最初の方で習ったよね」
「それって、実際に男相手にやったことある?」
「えー、あるわけないじゃん。ホントに蹴ったらヤバいでしょ。ていうか、アタシ組手とか全然やってなかったし。痣とかできたりしたら、イヤでしょ」
「ああ、そうなんだ。…それってさ、今でもできたりする?」
「何それ? できるっちゃできるけど。アタシに蹴ってほしいってこと?」
自称21歳。ギャル系のノリの良さと外見が受けているAV女優の愛河アミは、笑いながら聞き返してきた。
「うん。まあ…できれば…」
鏡に向かって、まつ毛のエクステをいじっていたアミは、ここで初めてタツヤの方を振り向いた。
「マジで? だって、めっちゃ痛いんじゃないの?」
「まあ、そうだと思うんだけど…。今度さ、そっち系の作品を撮らなくちゃいけなくって。自分でも経験しといた方がいいかなって思うんだよね。痛いのは知ってるけど、蹴られたことはないからさ」
「あー、そういうことかあ。大変だねー」
「お願いできるかな?」
タツヤは立ち上がり、大きく足を広げた。 日常の仕事をこなしながらも、北島に言われたことが、ずっと頭に引っかかっていた。 自分が望んで引き受けた仕事ではなかった、元来が生真面目な性格だった。金蹴りのことを知るためには、まずは自分の身でそれを受けてみるしかないと思ったのだ。
「まー、別にいいけど。痛くても、怒んないでよ?」
ノリのいいアミは、すぐに立ち上がった。 撮影の合間の休憩中のため、全裸にバスローブという出で立ちで、椅子から立ち上がると練習するかのように、右脚を上下させる。
「でも、久しぶりだからなー。うまく当たんないかも」
なるほど、ただ単に脚を上げているだけではなく、きちんと足の甲で目標を狙うような素振りだったが、そのスピードを見る限り、大きなダメージを受けるとは思えなかった。
「じゃあ、やろっか? 準備いい?」
「ああ、うん…。どうぞ!」
やや緊張した面持ちで、タツヤは停止した。 その股間を、アミは凝視する。すっと腰を落として、かまえをとった。
「えい!」
と、アミが脚を振り上げたとき、予想外のことが起こった。 本人も無意識のうちに、タツヤは腰を引いて、アミの蹴りを避けてしまったのである。
「あ! 避けた!」
「あ! ご、ごめん…」
なぜ避けてしまったのか、自分でも不思議だった。今まで一度も金的蹴りを受けたことのないタツヤだったが、男の本能のようなものが、その危険を察知したのか。反射的としか言いようのない行動だった。
「ちょっと! 避けないでよ」
「ごめん…。なんでだろう。つい…」
「やっぱり怖いんじゃないの? やめとこっか?」
アミはなぜか、嬉しそうに笑みを浮かべていた。 男の弱い部分を垣間見たような、そんな笑い方だった。
「い、いや、そういうわけじゃ…。今度は、目をつぶっとくから。それで蹴ってみてよ」
アミの笑顔を見て、タツヤは言いようのない悔しさを覚えた。 その悔しさがどこから来るものなのかよく分からなかったが、結局それが、ここでやめるわけにはいかないと決心する元となった。
「ああ、なるほどね。じゃあ、声もかけないからね。準備ができたら、言って」
うなずくと、タツヤは目をつぶった。
「どうぞ」
暗闇の中、いつ来るかわからない金的蹴りを待つということに、あまり恐怖は感じなかった。しかしそれは、タツヤが金的蹴りを経験したことがないからこそだったのだと、後に思い知ることになる。
バスッ!
と、ジーパンの股間に足が当たる音がした。 その瞬間、タツヤは目を見開いて、両手で股間を押さえてしまう。
「あいっ!?」
それまで存在を意識していなかった股間のその場所にあるモノから、経験したことのない重苦しい痛みが沸き上がってきた。
「あ…ああ…。う…ん…ああ…!」
意味もなくため息をついて、前かがみになったまま、その場で足踏みを始める。 そうすれば、痛みがまぎれるような気がしたのだ。 しかしその期待ははかなくも裏切られ、痛みはさらに重量を増しながら、体全体、指の先まで広がっていくようだった。 タツヤはたまらず、その場にしゃがみこんでしまった。 それでもなお、痛みは治まることなく、下っ腹を震わすように響いてくる。 結局、なるべく体を動かさず、糸のように細い呼吸をすることが痛みを抑える唯一の方法だと、すぐに悟ることになった。 その間、蹴った方のアミはというと、タツヤの痛がりようを見てまず驚き、次にその一連の動作に面白みを感じたらしく、声を上げて笑い出した。
「あっ! 当たっちゃった? 大丈夫? …ていうか、何? どうしたの? 痛いの? 演技じゃなくて? マジで痛いの? …あー、ちょっと待って。ゴメン、ツボだわ、そのポーズ。マジでウケる。ダッサイなー!」
男が自らの手で股間を押さえて苦しむ様子が、なぜ女性にとって面白いものなのか。それは誰にもわからない。 男性のシンボルである性器は股間にあるが、普段男は、あたかもそこに何もついていないかのようにして生活をしている。 性器をむやみに意識させることは、性欲の対象である女性に対して、卑猥で恥ずかしいことだと、現代社会では考えられているからだろう。 男性器は男の象徴だが、同時に最もプライベートな部分であり、隠さなければならないものだということだ。 しかし金玉の痛みに襲われた男は、そんな見栄もプライドもかなぐり捨てて、痛みのあまり、全力で大切な性器を守ろうする。普段の力強い男の様子とはあまりにもかけ離れたその姿に、女性は面白みを感じてしまうのかもしれなかった。
「そんなに痛いの? 超かるーく蹴ったんだけど。どんな風に痛いの? 立てないの?」
そう聞かれても、説明する気力もなかった。 女に金玉の痛みを説明したところで、何になるだろうという気持ちもある。
「いや…マジで痛い…」 小声でそうつぶやくと、それもまたアミにとっては面白かったらしい。手を叩いて喜んでいた。
「やっぱり男の急所なんだねー。超ウケる。アタシも実際に蹴ったことなかったからさ。なんかありがとうね、マジで」
笑いすぎて涙さえ浮かべているアミの表情には、清々しいまでの勝ち誇りがあった。 彼女にそんな顔をされると、タツヤは自然と、自分は敗者なのだと認めざるを得なくなる。 事実、彼女はタツヤを制圧していたのだ。 アミは胸やお尻はそれなりに大きいが、ウエストは細く、手足にもさほどの筋肉がついているようには見えない。 どこからどう見ても、彼女の肉体的な強さはタツヤよりも劣っているはずだった。タツヤだけではない。世の中の男性のほとんどが、彼女と対面したとき、いざとなれば簡単に押し倒せるくらいのことを、心のどこかで考えることだろう。 しかし実際には、彼女のただの一撃で、タツヤは完全に行動不能にされてしまったのだ。 どんなに筋肉の鎧に守られた男でも、この痛みには耐えられない。弱々しいはずの女性の蹴りによって、一撃でノックアウトされてしまうほどの絶対的な急所が、すべての男には生まれながらに備わっているのだ。 この痛みと屈辱は、一時的な性的自尊心の喪失につながるではないかと、のちにタツヤは分析している。
「ていうか、まだ痛いの? ずっと痛いんだね。どうしようかな。こうやって叩くと、良くなるって言ってた気がするけど。トントントンって。こう?」
アミはタツヤのそばにしゃがんで、その腰のあたりを叩いてやった。 確かにそうされると、痛みがわずかながら和らぐ気がして、タツヤは救われる思いだった。
「大変だねー、男って。まあ、女も生理痛とかあるけどさ。どっかぶつけたり、手が当たったりしても痛いんでしょ? それはさすがにムリだなー」
腰を叩くアミの手は柔らかく、タツヤはそこに嫌でも女性の肉体を感じずにはいられなかった。 そして最初からそうだが、彼女の話しぶりには、自分とは無縁の痛みだという意識がある。タツヤが味わっている苦しみは、永遠に自分を襲うことはないという安心感と優越感が感じられるのだ。 女には金玉はついていない。分かり切ったことなのだが、今改めてそれを実感し、それを考えると、タツヤはアミに対して、ためらいながらも羨望の念を抱かずにはいられなかった。 自分も金玉を捨てて女になりたいと、絶望的な痛みの中で思うことがなかったといえば、嘘になる。 しかしその痛みを生み出している金玉は、生まれてから20数年間、自分の体の最も大切な部分として付き合ってきたもので、特に思春期を迎えてからは、男の象徴として誇りと共に守り抜いてきたものだった。 それをかなぐり捨てて、女になりたいなどと思っていいものか。しかしそんなプライドもどうでもよくなるくらい、この痛みは耐えがたい。 そんな葛藤が頭の中を駆け巡るのを、このときタツヤは、俯瞰的な心境で眺めることができた。
「金蹴りはSMじゃねえぞ」
という北島のその言葉の意味が、なんとなく分かりかけたような気がした。
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