「はあ…」
昼休み、大学の食堂に向かうマドカの足取りは重かった。 何か今日は、妙なことばかり起きてしまう。 生活ができるだけの仕事をして、あとは読書さえできればいいという彼女の平凡な人生には、起こるべからざるハプニングの連続だった。 なるべく考えないようにしようと思い、いつも通り文庫本を片手に、キャンパスを歩いていた。
「すいませーん。ボール、投げてくださーい」
ふと気がつくと、マドカの足元に野球のボールが転がってきていた。 顔を上げると、グラウンドの方から、野球部らしい学生が声をかけている。 マドカには野球の経験などはなく、きちんとボールを投げられるかさえ怪しいものだったが、なんとなく気晴らしになればと、慣れないことをしてみようとした。
「はーい。そーれ!」
足元のボールを拾うと、ぎこちない動作で、学生に向かって投げた。 そのボールは思ったよりも高く上がり、いつの間にか晴れ間が見えていた空に向かって、野球部の学生は目を向けた。
「あっ!」
突然、雲の隙間から差し込んだ光に、学生は目を細めた。 ボールを見失ったと思った次の瞬間。
コーン!
と、キャンパスの石畳にボールが跳ねて、そのまま吸い込まれるようにして、学生の股間に直撃した。
「あぐっ!」
マドカの奇跡的な投球だった。 視聴者投稿の珍場面動画でもあれば、グランプリも夢ではないほどの驚きの出来事だった。
「あ…ああぁ…!」
しかし、野球の硬球が股間を直撃した学生の方はそれどころではなく、苦しそうに股間を両手でおさえながら、その場にうずくまってしまった。
「……!!」
マドカは、ボールを投げた時の姿勢のまま、何が起こったのかを理解して、固まってしまった。 やがて額に冷たい汗が流れるのを感じると、そそくさとその場を立ち去り、苦しむ学生を振り返ろうともしなかった。
(おかしい。何か、絶対におかしい…。こんなことって、あるはずがない…)
さすがのマドカも、自分の身の周りに何かが起きていることを感じずにはいられなかった。 普段、仕事以外ではまったくと言っていいほど男性との関わりがない彼女が、今朝からすでに3人もの男をノックアウトしてしまっている。しかもそのすべてが、股間の急所攻撃によるものだ。 男の体の中で最も男性的なその部分を、日頃まったく意識したことのないマドカにとっては、それはひどく恥ずかしいことに思えてしまい、偶然とは思えない一連の出来事の原因を探ろうと、懸命に考えるのだった。
(最近、何か変わったことって…)
極めて規則的で日常的な自分の生活の中から、何か特異点のようなものがなかったかどうか、思い出してみる。 ふと、何か思いついたように鞄の中を探り、何かを取り出した。 その手の中には、古びた人形のようなものが握られている。
(もしかして、これ…?)
それは旅行好きな彼女の祖母が、九州の土産にくれたもので、現地の骨董品市で見つけたお守りだった。 黒光りする石でできたそのお守りは、埴輪のような女性神が、丸い球の上に乗った形をしている。 九州の遺跡から発掘されそうなそのお守りを、マドカは一目見て気に入ってしまったのだが、その効果について祖母に尋ねてみると、
「金運とかなんとか言ってたような気がするね」
という、あいまいな返事が返ってきた。 どうやら祖母も、その形だけを気に入って、お土産にしたものらしかった。
(まさか…ね…)
マドカの最近の日常の中で、変わったことといえば、この程度のことだったのだが、まさかこのお守りのせいで男性をノックアウトするはめになっているとは思えなかった。
(でも、他には何にも…)
お守りを鞄にしまって、再び考えようとしたとき、背後から声をかけられた。
「あれ? 何か落としましたよ」
振り返ると、つい今しがたすれ違った男子学生が、石畳の上を覗き込んでいる。 そこには、さっき鞄にしまったと思っていたマドカのお守りが落ちており、学生は親切に身をかがめて、拾おうとしてくれているところだった。
「あ! す、すいません!」
何の証拠もないが、なぜか男性がそのお守りに触れることが、とてもまずいような気がして、マドカは慌てて駆け寄り、自分で拾おうとした。 すると、焦って石畳につまづき、前のめりによろけてしまう。
「あっ! っと!」
ズン!
と、マドカの頭のてっぺんに、何か柔らかいものがぶつかった感触があった。 前のめりに転びそうになった彼女と、腰をかがめてお守りを拾おうとした男子学生。二人がちょうどぶつかり合う瞬間、またしても奇跡が起きた。
「ぐえっ!!」
男子学生は、何かスポーツでもしているのか、かなりたくましい体つきをしていた。 しかし、そんな彼の厚い胸板やスリムな腹筋の下に、どうしても鍛えられない脆い一点があり、マドカの頭は、ちょうどそこに直撃してしまったのだ。
「くうぅぅ…」
マドカにとっては、もはや見慣れた光景になっていた。 その男子学生は、朝のサラリーマンや主任の来島とまったく同じように、痛そうに目をつぶり、両手で股間をおさえて内股になってしまう。
「あ…ああ! す、すいません! すいません…」
またしてもやってしまったと思った。 一体なぜ、今日に限ってこんなことが連続して起きるのか。マドカにはさっぱり意味が分からなかったが、とりあえず落ちていたお守りを拾って、尻を突き出して苦しんでいる学生の腰を叩いてやることにした。
「あの…痛いですよね…。分かってます…。すいません、ホントに…」
「あ…うぅ…」
学生はまだ声もろくに出せないようで、かわいそうなくらい必死に、両手で股間をおさえている。 大きな体をした学生が背中を丸めて苦しみ、小柄なマドカが腰をさすっている様子は、一見して転んだ子供を母親が慰めているようで、道行く学生たちの目を引くのだった。
昼休みの後は、とりあえず何事も起こらなかった。 マドカが注意して、男性に近づかないようにしているおかげだったのだろう。 それでも昼食を終えた後、図書館に戻った時は気まずかった。
「…中根さん…?」
いつもよりもだいぶ控えめな声で、来島が中根を呼んだ。
「はい?」
マドカが振り向くと、普段よりちょっと離れた場所に、来島が立っている。 しかもマドカが振り向いた瞬間、来島はビクッとして、その左手を股間に当ててしまった。
「こ、これを…打ち込んでおいて…」
マドカに近づかないように、精いっぱい手を伸ばして書類を渡すと、すぐに自分の机に戻っていった。 マドカはきょとんとした表情で書類を受け取り、その様子を後ろから見ていたヒロコが、クスクスと笑っていた。
しかし、マドカが油断したからというわけではないが、奇妙な出来事はまだ終わらなかった。 彼女の読書以外の唯一の趣味が水泳で、週に一回、スポーツジムのプールに通っていた。 といっても、人と触れ合うことが苦手な彼女は、泳ぎを習うというわけでもなく、自分のペースで、好きなように泳いでいくだけだったのだが。
(はあ…。今日はなんか、疲れたな…)
ゆっくりと平泳ぎをしながら、考え事をするのが彼女の習慣だった。 いつもは読んでいる小説の続きを想像したりするのだが、今日ばかりは違うことを考えてしまう。
(なんであんなに…股間ばっかり当たっちゃうんだろう…。今まで一度もそんなことなかったのに…)
兄妹もおらず、男性と交際したこともない彼女は、男の股間についている性器については、学校の保健体育くらいの知識しかなかった。 しかし、そこが男の急所であり、絶対に鍛えられない場所であるということは、もちろん知っている。
(テレビで見たことはあるけど、ホントにあんな風に痛がるんだ…。あんまり強く当たったとは思わなかったけど…。偶然当たっても、あんなことになるなんて。男の人って、大変なんだな…)
ゆっくりと数キロ泳いだ後、マドカはプールサイドに上がった。 逆にどこで売っているのかと思うくらい、地味で飾り気のないワンピースの水着から、水が滴っている。 肩で息をしながら、プールサイドを歩いていると、このスポーツジムのインストラクターが声をかけてきた。
「やあ、中根さん。こんばんは」
「あ、こんばんは…」
たしか木村とかそういう名前だったと、マドカは思い出していた。 マドカは彼のレッスンを受けているわけではなかったが、すでにこのジムに通って2年ほどになるため、顔見知りになっている。
(……)
普段は気にもしなかったが、インストラクターの木村が着ている水着は、ピチピチの競泳水着だった。 その股間には当然、男性を象徴する膨らみがもっこりと盛り上がっており、しかもプールから上がったばかりなのか、濡れてツヤツヤと光っている。 今日、あんなことがあっただけに、マドカは思わずその膨らみを凝視してしまった。
(この人も、アソコにぶつけられたら、痛がってしゃがみこんじゃうのかな…)
真っ黒く日焼けした木村の肉体は、ボディビルダーと見紛うほどに精悍なものだったが、今、マドカの関心はその六つに割れた腹筋ではなく、その下の膨らみだった。
「……?」
木村は、普段のマドカにはない雰囲気を感じ取ったが、かといって自分の股間が注目されているとは思わなかった。 やがて、マドカが木村の前を通り過ぎようとしたとき、プールサイドの水に足を滑らせて、よろけてしまった。
「あっ!」
こういう時、人間はとっさにその場にあるものを掴もうとする習性がある。 マドカはその習性通り、一番近くにあった一番掴みやすいものを、その手に握ってしまった。
「ぎゃあっ!!」
なんとか尻もちをつくだけで済んだマドカの耳に、カエルの鳴くような悲鳴が飛び込んできた。 ふと見上げると、マドカはその左手で、木村の股間の膨らみをしっかりと握りしめてしまっている。
「あ! やだっ!」
自分がしでかしたことを理解して、マドカは木村の股間からすぐに手を離した。 一瞬だが、マドカの全体重が、木村の股間にかかってしまったことになるだろう。 木村はすぐさま股間に手を当てて、そのまま座り込んでしまった。
「う…ぐぅぅ…!」
じわりじわりと、木村の股間から痛みが広がり始めていた。 握られた瞬間も痛かっただろうが、それとは別の内臓を捻るような痛みが、これから数十分、彼の肉体を支配するのだ。
「あの…すいません! ホントにごめんなさい…」
マドカの必死の謝罪も、木村の耳には届かなかった。 やがて他のインストラクターが異変に気づき、二人の周りに集まってきた。
「どうしたんですか? 木村さん!」
声をかけられても、木村はただ苦しそうに呻くだけだった。 仕方がないので、マドカが状況を説明しなければならない。
「あの…私が転びそうになって…つい…掴んでしまったんです…木村さんを…」
「ええ? 掴んだ? え…と…それは…」
「その…あの…股間を…」
やっとの思いで、マドカはそれを口にすることができた。 それを聞いた男性のインストラクターは、苦しむ木村の様子を見て、何も言えなくなってしまった。 一方、ジャージ姿の女性のインストラクターは、一瞬、眉をひそめて怪訝そうな顔をした後、理解したのか、急に吹き出してしまった。
「プッ…ククク…。あ、ごめんなさい…。ククク…」
懸命に笑いをこらえている様子だった。それを見て、女性であるマドカも、少し救われた気分になる。 一方の男性インストラクターは、女性が笑うのを苦々しそうに見ていたが、すぐに気を取り直して、立ち上がった。
「俺、担架を取ってきます。とりあえず、医務室に運びましょう」
返事を待たずに、男性インストラクターは駆けて行った。 ジャージ姿の女性は、なおも笑いをこらえているようだった。
「それはその…けっこう強めに掴んじゃったんですか? フフフ…」
「え? あ、はい…。たぶん…」
まだ手に残っている木村の股間の感触を確かめるように、マドカは自分の左手を見た。 その様子が、またしても女性インストラクターの笑いを誘うのだった。
|