とある大学の武道場。 空手部の部員たちが稽古に励んでいた。
「はじめ!」
部長の赤井ケンゴの号令で始められたのは、試合形式の組手。 この空手部の流派は実戦的で、組手の際には強化アクリル製のヘッドガードと拳を守るためのサポーター、脛あてなどが用いられている。 それでも強烈な蹴りが頭部に決まれば、気絶してしまうこともある危険な稽古だった。
「お願いします!」
その激しい組手を今から行うのは、男子部員の梅田アツシと女子の中野ジュリだった。 二人は同じ黒帯の二段で、身長もそれほど変わらなかったが、ジュリの手足は細く、とても空手の有段者とは思えない体格だった。 防具で守られているとはいえ、アツシの攻撃をまともにくらえば、簡単に吹き飛んでしまうかと思えるほど、二人の体重差は明らかだった。
「えぇい!」
開始から十数秒、先に手を出したのはジュリだった。 軽いフットワークから、思い切り踏み込んで、アツシの顔面にむかって突きをはなった。 しかしアツシは前方にかまえた手で、その突きを簡単に払い落としてしまう。
「はっ!」
今度は逆にアツシから、ジュリの顔面に向かって突きがはなたれた。 ジュリはこれを上半身をかがめるようにしてかわし、踏み込んできた相手の胸に向かってカウンターの突きを入れた。
ゴッ! と、鈍い音がしたが、アツシの分厚い胸板に、さしたるダメージはなかった。
「やっ!」
ジュリは今度はアツシの太ももめがけて、下段蹴りをはなった。 そのキレとスピード、ブレない体幹は素晴らしく、さすがに二段という段位を取るだけはあった。 しかしやはり男女の体重差は相当で、アツシはその下段蹴りを楽々と受けながら、カウンター気味に中段回し蹴りを繰り出していた。
「おっ! とと」
ジュリは両手でブロックしたのだが、片足立ちになっていたところに受けたためバランスを崩し、尻もちをついてしまった。
「待て!」
ケンゴが組手を止め、ジュリが立ち上がると、二人は道着を整えて、中央の開始線に戻った。
「ふー。すごいなー。よし!」
「はじめ!」
再開するとすぐに、ジュリはかまえを変えた。 それは腰を落とし、後ろ脚に極端に重心を載せた、いわゆる猫足立ちのかまえだった。 ジュリがそのかまえを取った瞬間、相対するアツシの顔に緊張が走った。 静かに、すり足のようにして間合いを詰めていく。 次の瞬間、
パン、パン!
と、弾けるような音が連続した。 下段、中段と、ジュリの蹴りがアツシの道着を叩いたのだ。 それは先ほどの蹴りのような威力はなさそうだったが、スピードは段違いで、アツシはほとんど反応できていなかった。 つま先立ちに近くなるほど脱力した左脚を、鞭のように動かすことで、スピードに特化した蹴りになっているようだった。
パン!
と、アツシが左脚の内側でジュリの蹴りを受け止めたかに見えた。 しかしそれは受けさせられたに等しいものだったようで、次の瞬間、ジュリの脚はアツシの股間に伸びていた。
パン!
「あっ!」
思わず、アツシは右手で股間をおさえた。 そしてガードが下がった顔面に、バシッとジュリの蹴りが斜め下からえぐるようにして入った。 最初の蹴りからここまで0,5秒以下。流れるような三段蹴りだった。
「一本! それまで!」
あおむけに倒れるようにして沈んだアツシを見て、ケンゴはすぐさま組手を止めた。
「オス!」
ジュリはその場でペコリと頭を下げ、開始線に戻った。
「梅田、立てるか?」
「オ、オス…」
下腹部をおさえながら、ヨシキは何とか立ち上がり、よろけながら何とか開始線に戻ることができた。
「ありがとうございました!」
一礼してヘッドガードを外すと、ジュリはすぐさま道場の隅に駆けて行った。 そこには、見学に連れてきた友達の石田ミカが座っている。
「きゃー! 勝っちゃった! すごかった? どう?」
つい今まで、あれほど緊張感を持って組手をしていたとは思えないはしゃぎようだったが、これが本来のジュリのテンションだった。
「すごかった! ほんとにすごいよ! ジュリ、強いじゃん。わたし、心配しちゃったよ。ぜんぜん大丈夫じゃん」
石田ミカはジュリと同じゼミに通っていて、普段からよく遊びに行ったりしている。 ジュリが空手をやっているのは知っていたが、実際に見るのは今日が初めてだった。
「それが大丈夫じゃないのよ。手加減してくれたからさ。あの受けもさ、ビシッて弾かれて、超痛いからね。骨に響くんだから」
アツシに突きを払い落とされた右手をさすりながら、顔をしかめた。 組手には勝ったはずだが、それをおごらず、何でもあけっぴろげに話すのが、彼女の好かれるところだった。 その口調は正直で、まったく嫌味がない。
「そうなんだ。でも最後のキックはきれいに決まったね。すごい速くて、避けられなかったんじゃない?」
「あー、アレはね。その前に金的が決まってるから。一本取ったのも、金的蹴りのだよね。最後のはおまけっていうか、そんなに効いてないと思う」
「え? そうなの? 金的蹴りって、その、急所というか、アソコの?」
日常、あまり聞きなれない言葉をジュリが自然と話していて、ミカは少々面食らった。
「そう。ウチは金的攻撃もありだから。金的蹴りはいつも練習するし、受けの練習もするよ。ま、わたしは攻撃ばっかりだけどね」
ジュリはペロっと舌を出して笑った。 あの猫足立ちのかまえは、威力よりも素早さに特化したもので、金的蹴りを決めるためにあのかまえに変えたのだろう。 ふと目をやると、ジュリに金的蹴りを受けたアツシは、防具も外さず道場の隅に正座して、下腹部をおさえているように見える。 最後の顔面蹴りのダメージよりも、金的蹴りの方が深刻だったということだろう。
「ウチでは、女子は絶対金的蹴りを覚えさせられるよ。護身術にもなるし、便利だよ」
「やっぱり、そうなんだ。あの人、痛そうだもんね。あの、そこの防具とかつけてなかったのかな?」
次の組手はすでに始まっていたのだが、いまだに顔をあげられずに苦しんでいる様子のアツシを見て、ミカはそう思った。
「ううん。防具は着けてたよ。みんな、ズボンの下に着けてるみたいだよね。それでも痛いときは痛いみたい」
「そうなんだ」
ジュリは蹴ったときに、ファールカップの存在を足で感じたらしい。 この空手部では、動きやすさなどの面から、大型のファールカップを着けたがらない男子が多いようだった。
「ねえ、もっと見たい? 見せてあげるね。部長! わたし、やります!」
ちょうど男子同士の組手が終わったとき、ジュリはまたケンゴに向かって手を挙げた。
「お、そうか。それじゃあ、相手は古川、お前やれ」
「オ、オス! 部長、ちょっと…。防具を着けなおします」
指名された古川ヨシキはそう言うと、いったん用具倉庫に入り、出てきたときには、股間に防具を装着していた。 それはボクサーがスパーリングの時に着けるような大型のもので、厳重に股間を守るようなタイプのものだった。
「オス! お願いします!」
白い空手道着の股間に、黒いプロテクターがポッコリと盛り上がっている。 はっきり言って不格好なその姿を見て、ミカは思わず笑いがこみ上げそうになってしまった。
「え? ちょっと、ヤバくない? あんなの着けられたら、さすがに効かないんじゃないの?」
金的蹴りに対する完全防御ともいえる防具を着けて、ヨシキは自信ありげだった。 しかし、いかにも動きにくそうな、あんなものを着けなければジュリと組手が取れないと考えると、ミカにとってはそれ自体が面白おかしいことだった。
「そうだねー。痛くないかもね。でも、技が決まればちゃんと一本は取ってくれるから。見ててね」
そう言うと、ジュリはまたにっこりと笑って、防具を着けた。
「よし。では、はじめ!」
ケンゴが合図をすると、ジュリはすぐさま、先ほどの猫足立ちのかまえを取った。 言葉通り、今度も金的蹴りをミカに披露するつもりらしい。 ヨシキもそれは想定内のようで、右脚を大きく引き、半身になって、念入りに正中線を守るかまえを取った。
双方、相手をうかがうような十数秒の沈黙の後、先に動いたのはジュリだった。 ヒュッと音がするような鋭い蹴りが、ヨシキの股間に振り上げられる。 間一髪、ヨシキはそれを右手で叩き落した。
「ふっ! はっ!」
しかしジュリの連続蹴りは止まらず、股間だけでなく、中段、下段と次々に繰り出してくる。 ヨシキはそれを一つ一つ防御したり、打点をずらしたりしてかわしている。 ミカの目にも、先ほどはとらえられなかったジュリの蹴りの秘密が見え始めてきた。 ジュリはすり足で動いているが、その際、脱力した前脚が地面につくかつかないかのところで、蹴りを繰り出している。 相手にしてみれば、移動がすぐさま攻撃につながり、とても厄介なかまえだった。
パシン! パシン!
と、ヨシキが防御するために前に出した左脚に、何度も蹴りが当たる。 しかし、それはローキックほどのダメージはないようで、ヨシキにしてみれば、金的にさえ当たらなければいいと考えているようだった。
「えいっ!」
ジュリが攻め方を変え、ヨシキの顔面に向かって突きをはなった。 相手の視界を奪うことを目的とした、脱力した突きで、ヘッドガードで守られているとはいえ、ヨシキの体に緊張が走った。
「はいっ!」
スパン! と、隙をついた金的蹴りが、ヨシキの股間に炸裂した。
「一本! それまで!」
ケンゴが組手をとめた。
「オス!」
ジュリはその場で頭を下げた。 先ほどと違うのは、股間を蹴られたヨシキが、まったく痛がっていないことだった。
「オ、オス! すいません。今のは、入ってないんじゃないかと…」
ヨシキは部長のケンゴに、恐る恐る申し出た。
「なに? そうか? きれいに入ったように見えたが」
「いや、自分はとっさに腰を引いたんですが、この、プロテクターに当たってしまって…」
どうやら、ヨシキはジュリの金的蹴りをかわしたつもりだったらしいが、大型の防具は股間の部分が盛り上がっているため、そこに当たってしまったと主張しているようだった。
「うん。そうか。中野はどうだ? 手ごたえはあったか?」
「えー。ありましたよ。さっきよりもきれいに入った気がします」
「いや、まあ、でも…」
ヨシキは金的蹴りを入れられたことを認めたくないのか、潔く負けを認めなかった。 女性に男のシンボルである金玉を蹴られるということは、女性に制圧され、男としての存在を否定されてしまうような、そんな複雑な気持ちになる。 それは同じ男であるケンゴにも、理解できる部分があった。
「じゃあ、もう一回、防具を外してやってみましょうか? ね?」
ジュリはにっこりと笑いながら、ヨシキの股間の防具を指さした。
「え? そ、それは…でも…」
ヨシキはとっさに、口ごもった。 防具なしでジュリの蹴りを受ければ、先ほどのアツシのように痛みに苦しむ可能性が高い。
「なーんて、ウソウソ! 外さなくていいですよ。みんなが痛い思いするの、わたしもイヤですから。練習ですから、引き分けにしましょ? ありがとうございました!」
ジュリは笑いながら一礼して、防具を外した。 そして先ほどと同じように、ミカのもとに駆けていく。
「イエーイ! また決めちゃったー! すごいでしょ? でしょ?」
はしゃぐ様子を、ヨシキは呆然と見ることしかできなかった。 もし防具がなかったとしたら、どうなっていたか。それは彼が一番よく知っていたから。 そして部長のケンゴもまた、はしゃぐジュリの様子を、半ば微笑ましく、半ば悔しそうに見ていた。
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